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 芸術でなくちゃならない。会話でも。論理的な会話を排除しなくては私の生活は一切成り立たず痴呆になり歩き方も忘れてしまいには雷に打たれ値を吐き出し意識は研ぎ澄まされて痛みでコンクリートに頭をぶつけるだろうう。僕の言っていることの糸ばかり詮索しても何も始まらないじゃないか、大事なのは物を言う感興がここにあるということじゃないか、対話がここにあるということじゃないか。言葉なんてなくてもいいのならあってもいいということじゃないか。文学的な表現ばかりが美しいというのももっぱら嘘であることは確かじゃないか。その環境を言葉に表現できないけれども形にすることで僕はやっと生きていけるのかもしれない。取材の自由というけれどその目的とするところは人の知る権利であるけれども。カネを機にする人が貧乏人で。見たまえよに闊歩する年収の高い人間たちの顔を。労働者の顔をしている。黒々しく輝いて。時間も心もお金のために腐心している。ユーモアも忘れてひたすら稼いでいるのだ。彼らに完成はない。彼らの感性に付き合いたくない。だから僕は全てのものを拒否する。もし僕がアラブの大富豪であるならば、お金があるとすればだね、そんな小汚く働いている奴なんかと近寄りたくもないね。なんなら、いじめてやりたいくらいだ。カネしかお前にはないのかってね。それは僕にも言えるのかもしれない。僕の不安はもう現実化しているのかもしれない。大きく方向を転換しなくてはいけない。人は目標がひとつ定まれば精神が統一していく。そういう法則を持っている。大人になるというのは夢がたくさんありすぎて不安な子供の一つの目標である。まさに塾も学校も家庭も全て精神病院である。投与されている躾をありがたがるのも当然であり、子供が置き去りにされた時に泣いて車を追いかけるのも結局は何もなくなるよりもひとつ心にしみがある方が心が安定するからだ。僕の意見が間違っているというのならばそういってほしい。僕は正解のあることを言っているわけじゃない。足し算ではないからいくらでも言葉を使って僕とは正解じゃないことを言えるはずだ。問題は言葉があまりにも小さいということじゃないだろうか。いろんな人の話を聞くことは大変に大切なことである。案外人間の人生についての物語を聞いていると、画一的である。大学生の話なんてものも聞いていてイライラするのは、彼らの若さからくるものよりも、過去の学生と比べて変わらないところじゃないだろうか。元気がないと下の盛大を叩く人間もいれば、無言で蹴飛ばす人間もいる。所詮は数の原理で民衆は動くし民衆とは数そのものなので、どうしようもない。僕に世界がなくなくなったら僕の魂は本当に死んでしまうだろう。僕は一度自由を得たことで世の人がどれだけ自分の感性を殺して生きているのかを知って反吐が出た。それに対して反発するよりも巧みな言い訳を求めたがることもよくわかった。わかったけれども納得はしていないのでわかっていないという人たちもいることがわかった。彼らは気持ちに寄り添ってほしい寂しがりやさんなんだけれども私は寂しがりやさんの慰めの遊び道具になるのは嫌いだということがわかった。わかったことは他にもある。わたしには根本的にやる気がないし何をしようという気もない。のんべんだらりとこと線に触れたことが書きたいのだけれども書くことは全てどこか私から遠のいたことばかり書いている。心に響かない言葉ばかりをここに書いている。納得しないし、共感もしない何と言えばいいのか知らない。言葉の持つ本来の性格、つまり、公共性こそが言葉の本来の姿だとすれば僕の心を表すにも公共物を借りなくてはならないという問題にぶつかる。私の中にだけしかないはずなのにそれに共感されるということが苦痛でしかないと考えるのは私が競争から降りてしまいたいと言う疲れからきているのかもしれない。元気な時に日記を書くような人間はいないに決まっているのだから。僕の中のひとつの原理として、考えるより行動しろということがある。つまり、もう考えられないくらい考えた後に行動が来るということで人一倍考えているということだ。世の人が嫌いである。したり顔で電車に乗っているような人間を見るとかわいそうに見える。僕の中の拒否感を誰か体現してほしいものだ。あまりにも世の中が静かなので台風が来るのではないかと心配になるものだ。個人が安定しないということは社会が安定しているということに他ならない。戦争は個人の心をも安心させるだろう。この事実が何を表すのかしれない。欧米人の厚かましさで行けば戦争は永遠になくならないであろうと思われるからだ。