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幸せを求める気は無い

 

なぜなのか、なぜなのかということを追求することの楽しみが僕にはある。それがいかなる人から何を言われようとも私を追いかけるのであるし、私の伴侶は常に疑問の形を持っている。私がここで生活しているのまた学校へ行かないのも産業に侵された外の世界が、つまりは、自らの楽しみが何かを生み出さなくてはいけない、楽しむために一度自分が苦しまなくちゃならないという関係の中から外へ出たいという気持ちがあるからに違い無いのだけれども、この説明を一度したからもう十分であるというわけでは決してなく、何度も回帰させるべく説得として深めていかなくてはならない。愛は深めるものであるはずじゃないか。恋には苦いものがあろう。しかし、愛とは嬉しいものである。疑問さえ愛する。疑問という形式が持つのは代わり映えのしない既知を変形させる動機になり得る。また周囲に問題を提起して賛同をもらい協力を得ることもできる。それだけに、疑問を愛するということが如何に幸せな状況であるのかを知るべきである。働いている人間を見たまえ、自らが生み出す貨幣の使い道ばかりが頭の片隅にある。もし貨幣を失えば全ての楽しみが奪われるような考えをしている。私は金銭嫌いではなく、金銭で物事に解決をもたらそうとする意志が嫌いなのだ。そんな連中と付き合っていれば私もいずれそのような人間になってしまうのだと考えると、私は就職することで時間を奪われるのに、時間だけで無いかけがえの無い愛も奪われそうな気もするのだ。労働者は疑問を持てない。手足を切断され頭で考えていることは皆同じである。如何に楽をするのか、如何に持ち金を使うか、そして増やすのか。以上のことがだいたいの労働者の楽しみである。趣味を持つべきであると思う人もいるだろう。お金ばかり見つめるのではなくて、趣味を見つめるべきであると。そういえば、彼女はある先生を慕っているのだけれども、彼女は自分の都合の良い助言ばかりを頭に留めるのであって、決して全てを留めるわけじゃ無いのだ。実に悲しい。もし、その人を愛しているのならば実践するべきなのに。彼女は身勝手である。彼女なりの理想があるのだろう。それに苦しめられている。だから、彼女はここでの生活を楽しむことができない。典型的な田舎生まれ人間で都会を憎む。しかしこの説明を僕は自信を持って発表することはできない。なぜならば、田舎と都会と分ける自分が一層低次元に属しているように感じられるからだ。区別さえ無く生きられれば幸いである。要するに、田舎であろうと都会であろうと楽しむことをするべきなのだ。またそうであるべきなのだ。僕はできた人間じゃ無い。親もろくでなしで金ばかり送ってきて全く私の人生に対して不安を一人持って余しているのだろう。家族の言葉はあまり真面目に聞かない。元来私は人の話を真面目には聞かない。感心して聞いている話でも頭には入っているけれども、すぐに捨てられるようになっているのだ。僕自身の心構えが今の僕を作ったのだ。一体全体、人間は自分勝手に生きられるものでは無いのか。自分勝手に生きることというのは感性の問題だ。理性があれば人々は倫理を持ってそこに集結するだろう。倫理は私を拘束するか。私の行動規定はどこにあるのか。おそらくは洗練の方へ向かっている。それは確かだ。では何を研ぎ澄ましていこうと私はしているのか。それについて私自身はわからないという説明をしては決していけないのだ。わからないのならば何がわからないのかを明確に示して文章にしなくちゃならないという要請を僕はでは、どこから感じているのだろう。とりとめの無いことを書き連ねることが幸せであろうか、一緒にいることが幸せであろうか、私は彼女の習慣と結婚するのである。そして、すでに結婚していると言ってもいいだろう。しかし、彼女の方では私の方に付き合ってくれる様子も無い。彼女は私を利用して彼女の希望を叶えるように私を仕向けることさえしないのだから、期待されちゃいないのだろう。いったい男女のこういった役割分担に同情も性質も無い。ただ、なぜ自分自身が動けばいいのに人を動かすのかということだ。だから太るのだ。自分が考え動けばまた楽しいのだ。女性は男性に比べて体力が無いからというもっともな理由がある。政府はもはや男性の働き手だけでは女性も労働力として確保するようさまざまな制度を作った。人の足元をも見て制度を作るのだ。この国の人間好きそうなことだ。人を値踏み、そして、瞬間的に差別する。話など聞こうとしない。今ここで話されていることよりも、誰かの発言を検索してくることに大いなる価値を見出している。発言した本人は言葉が人へと伝わって歪められていくのを権力者のなせる業だとでも思って看過している。波風が立たないので、黙っている。つまりは、この国の人間は口に猿轡を嵌められ、首に紐を巻きつけられ、しゃべることも、話を聞くこともできない。私はこの国が嫌いになりそうだ。それは僕の勝手な気持ちだけれども。態度として出るのならば、僕はどうしても好きになれない。蔓延している空気も嫌いだ。時代なのかもしれない。私には受け付けない事実だ。なんということだ。僕は他者は否定しても彼女を否定することはしたくは無い。僕は彼女がいくら理不尽であってもそれを受け入れることしかできないしそうするのがいいと思っているから。私は別に彼女と波風を立てようとは金輪際思わないようにしている。あまりに無謀な働きであるから。
 文章が煮え切ったので少し涼しい話題をひとつここに書きたいのだけれども今の僕の環境では何も書けそうでは無いのだ。僕の言葉から重みが去ってしまった。告白する相手が僕であるのでなかなかに僕は暇だ。言葉が自分を浮き彫りにすることはあるのだろうか。よくわからない。言葉が自分を主張する道具であるときにその道具はおそらくは自己の壊滅を狙うだろう。僕は夕方に外を歩きたく無いのだ。なぜならば、あまりにも情けないからだ。全ての感情は僕に宿っているわけでは無いようだ。与えられるのだ。喜びも悲しみも外からやってくる。僕がこうして文章を一人誰もいないところで書いているときの気持ちは何か奇抜なことを言えはしないかということだ。奇抜は世の人には嫌われてしまうけれども、それをあえて僕が書こうとしているのは、僕が何か一般的な解釈を持ち出して、健康は大事だとか、世の中全て結局はお金でなんとかなるし、だとか、お金は人間関係への亀裂の危機を乗り越えてくれる優れものだから、といったことを説得する相手を持たないからだ。反省とは自己説得である。反省がもし相手への慰謝であるとすれば、反省が自己に向かっていないので全くもって嘘だ。反省の後は変わらなくちゃならない。物の認識がである。しかし変わらない。何度も反省する。そして挫折する。そして自分を悔やむ。しかし、それは世の中への不満である。反省させられるようなことを世の中が私に押し付けてくる。私はそれに対してノン!と言わなくちゃならない。ノン!とは私への干渉を避ける魔法の言葉だ。ノン!