アウトプット

相手の視点に立ってみよう

目標の断捨離

 ある目標を立てれば人間の行動は定るでしょう。目標が確かに自分の内側からの物であれば一向に構いません。しかし、多くの人はといっても、すべての人がまわりからの評判やその他の社会的な必要性から目標を立てます。私は、違います。個人的に立てることに自由を見出します。三島由紀夫の主観の燃焼に近いです。客観的な物差しに重要性はありません。誰も納得などしません。データを並べられても何も語られない。世の中の雰囲気はデータにしなくても五感を研ぎ澄ませておけば感じ取られる。五感から入力されるデータを無視して数字に変換し客観性を担保することでより普遍的で変わりなく信用の置ける情報になるでしょう。情報を活用して商売をすればいい。売れそうなものを売ればいい。そうすれば、売るための努力をしなくてすむ。広告費も削減できる。しかし、それは売りたいものなのか。製品として何ら他の製品と連関することなく売られる独立の商品は一過性に終わる。だからより多く売るためには、利益を望むためにはいかに多くのものが必要であるか。わかるだろうか。僕にはわからない。思考力が落ちているのだ。文章も決まり文句が多くなってきた。どれも読んでいておもしろくない。よく退屈だと愚痴をこぼすようになった。要するに体力がないのだ。多く休まなくては元気にやっていられない。だから皆、元気じゃなくともダラダラと仕事をしているのだ。私ももっとダラダラできればこんな歳にもなって大学生をやらなくても済んだかもしれない。読書熱が冷めた時にやってきたのは、社会という読み物の退屈さとそれが持つ力また読み継がれるべき楽しい要素も十分に社会にはあるということ。だからどうした。僕がそれに触れられる日はいつくるのだ。究極的に救いようもないほどやる気がない。やる気は存在しない。僕は人前でため息をつく人や疲れたという人が嫌いだ。疲れているのならば、休めばいい。違うんだ、その言葉がどれだけ人のやる気を削ぐのかが僕にはわかるのだ。沈黙は究極の睡眠だ。何も考えずに体を動かし日経が作り出す産業の構造を理解し流行りではなく作られた流行を追い求め消費し心貧しい生活を送るにはこの日本が一番だ。私は思うのだが、家の外では常に消費ばかり強いられる。向学心ではなく人間関係。主従服従の構造を私は読み取る。僕はバカだろう。それはもっとうまく立ち回れば利益を上げられたかもしれないという、人並みに生きられたかもしれないという他人への浅はかな思慮である。それさえ言わぬがほとけ。ものを言いたいのなら文章に認める必要がある。僕は書けない。書きたくない。なぜなら君が好きだから。君が好きだから僕は何も書きたくない。何もしたくない。これはあたなのためなら何だってするけれども、しかし、あなたのして欲しいことなどなくて僕の欲望があなたを駆り立てることを知っている。僕が欲望を持てば持つほどあなたは私を鼓舞し私は私の首を強く締め付け窒息死する。末は病気になって顔色悪く家の外へ行くのも億劫で、本を読むにも視力に障害があり若い頃に大音量で聴いた聴覚への刺激で耳が遠くなり五感は廃れ鈍感になり、汚いものに親近感が湧くようになるのだ。どうすればいい、と吐き捨てて何もしない。何かをするときにやる気は弊害だ。何も設定しないほうがうまく立ち回れるのだ。力を僕は信じない。いや、信じることこそ力だ。しかし、僕の本質は疑うことにある。信ずるほどに疑いも強くなる。疑心暗鬼の猜疑心の塊になった魂は平安を失い堕する。さて、さいはなげられた。それにしても、不安はなぜこうも人を高揚させるのだろうか。定められた人生を楽しむ人たちは物欲を満たすための奴隷だ。ものの味わいもまだ知らないのだろう。貧困は彼らの方にこそあるのではないか。満たそうとすればするほどに貧困に陥っていく。断捨離。自分の考えも目標も目的も、また努力も全て断捨離するとしたら。仮定でしか語れない。あまりにも自由だから怖いのだ。恐怖だ。目標を持たないようにする。思うのだが、人間なんてそんなものだ。わかることなどないのだ。そんな時偽物の愛が結晶し白いドレスを着る。女性を喜ばすのが男性の生き甲斐だ。どんな精神分析的な症候からの効果なのかわからないけれども。読書をしたい。しかし、その分彼女の話を聞けなくなる。一緒にいたい。その分僕はダメになる。一体いつになればと考えるのはよそう。今日1日1日をいかに過ごせるかという問いを、しつこく問いかけてみよう。僕の4月5月6月は良くなかった。学校へ行って僕自身を捨てることができなかった。今なら容易に捨てることができる。その分回収できるとしたら。地位、名誉、金銭、そして女である。結局はそれに終始するのだ。近頃は直接的表現は嫌われ関節で曖昧な理想主義的な常識的な文言が好まれるようになった。それならば、まだ救いようがある。問題は、これらを上手に使って嘘をつくようになった。我田引水。自分の利益のために効果的な言葉を並べるようになった。議論もしない。相手に同情もしない。つまり、相手から同情もされない言葉を吐いてそして意気揚々としている。根拠は常識だ。常識が力を持つのはなぜか。考えない人間の拠り所だ。集団だ。そして、強い束縛があり個人は圧制される。