驟雨 

 僕は僕以上の何者でもない。僕の発する言葉は僕にとって主観的に影響を外部にもたらす言説であろうと意図する保痔に自らの主観は燃え上がるどころか消え去る。消滅の危機は快感として得られ、私は奈落の底に沈みゆく自らの社会的な信頼を遠くから見つめている。それを食い止めようともしない。努力は絶対にしない。我慢すれば人々の不満は別のところで発揮される。要は身体を傷つけることになる。また、性的傾向を見せる。緊張と緩和が人間の快感に必要であることから、人間は弛緩の快感を増すために緊張をも増幅させる。私には不快だ。緊張が不快だ。いかに力を抜くのか。筋肉から意識を取り出すのか。それこそが大事だ。意識は筋肉に働きかけ生理的な動きをさせる。外部に緊張を逃がそうと努力する。そうすることで現れる身体的変化はあまり褒められたものではない。僕は自分をもう責めない。どんな人生が待ちかまえていようがどこ吹く風。勝手にやってきた勝手に去ればいいのだ。計画はもう頓挫している。僕は論理的に物事を環ゲルよりも先に、論理を支えているあるものについて嫌悪感を抱いている。嘘ばかりついている。人々は嘘をつく。騙されやすい人は、転移の働きが一層強い人だろう。動かされやすい人だと言える。しかし、なぜ僕の日本語はこうも酷いのだろう。うまくしゃべれない。学校へ行けばバカになるというのはあながち嘘ではない。学校ばかり言って本もろくに読まないとしたら、よほどバカになって考えることもやめて疑う姿勢もおかしくなり、よってロボットが生まれる。ロボットが生まれるほどに、人間の感情もまた移ろいのなかに自由を求めるであろう。しかし、ここでいう人間とは私のことなのだろうか。それとも、私を含めた人間という種のことであろうおか。人間がよくわからない。遺伝子での説明、行動での説明、人間を分析する手段だ幾つもある。しかし、その手段が遺伝子によるとしたら性善説だ。占星術と変わりないだろう。また、なぜ人間とは、という問いに答えていきたがるのか。人間とは、と定義することができるのか。定義できるとして、それはすべての人間について妥当なことであろうか。そうであるのならば、感情的な面で人間を定義することは不可能のように思われる。感情は人に突然憑依して行動に移させるある種の病だ。また、人間は病を持たなければ自らが病を作り出すための行動までやってのける。生きている限り様々な寄生虫にこの体は狙われているのだ。小さい虫だから気づかないだけで。何が住み着いているのか知ったところではないのだ。僕が言いたいことは一体なんだろうと思う時、その時僕は社会を想定する。社会に対して僕が言っていることを鵜呑みにさせたいと思っている。一方で議論がしたいと思っている。議論もまた純粋に進められればいいものを、僕のその理想が僕の行動を阻んでいる。行動を阻むものは捨て去らなくちゃならない。僕はその点で彼女の行動を阻止することが目的で生きているわけでもないし、また、そのように彼女がふるまうとしたら至極残念だ。どうか好きに生きて欲しい。これは私の感情から発される言葉ではないのだ。私はこう言わされているのだ。社会に。仕事をする我慢と世の中の人の怒りに満ちた目への批判。私は意に介さない。好きなように見ればいいし好きなように振る舞えばいい。私もそのようにするのだから。また、それこそが人間が機械的なプログラミングの世界の呪縛から逃れる手段になるだろう。ユーモアこそ大事である。ユーモアを言うために必要な社会的ルールとその体験について僕は乏しい。僕の感受性はできるだけ社会を知らないで済まそうと考えている。もう社会を利用して相手の言い分を排除することに飽きたのだ。終わらせるためには新しいことが始められなくちゃいけない。僕は新しいことがしたいけれどもいつも協力者がいなかった。見守ってくれる人はいたかもしれないが、私は見守られている感覚がなかったので誰も協力してくれなかったのと同じである。孤独の中新鮮なものにぶつかって嘘をつき嘘の感情を吐露して生きていくことが大事だというのか。それも処世術である。