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自己主張は首を絞める、語るに堕ちる、言葉は作り出すものなのか?ひねり出すものでもない。吐き出すものだ。

 本を読んでいないと文章もまともに書けない。まともな文章と言っても事務的な文章ならばいくらだって書くことができるだろうけれども、趣味についての文章はとにかく文章が書けなくなってしまった。それはネタが飽きたからだろう。つまり行動は文章を乗り越えてしまったのだ。行動が、ぼくにもたらしたのは言葉と行動の世界は別であるということだ。いくら行動を言葉で規定しようとしてもダメだ。歩くと書いても人間は歩かない。では、言葉は?やはり神経的なものだ。感受性の問題だ。これも厄介だと思うのだ、神経の話を持ち出すとあまり具合が良くないからだ。神経は感じるだろう。日々感じている神経の話をするのは如何なのか。たいていの人間は神経が凝り固まっている。一つの回路を太くしようと努める。それでパズルを構築できないでいる。文章の良し悪しは考えないようにしよう。いいか悪いか、できたかできないかよりも、書けたのかそうでないのかの主観的な要素が人間の一生を決めるのだ。人生にしてもそうだろう。客観的にいい人生は主観的には不幸だ。僕はそう思うのだ。自分の人生だというけれども、客観的な社会的な価値にとらわれないわけにはいかない。そこから、しかし、逃れられるわけでもない。自分なりの主観を持てばいいのだ。これも主張だ。首長はつまらない。楽しいのは、人の意見をなぞることだ。つまりは裁判官の出した判例、首相の発言、テレビでしか会わない見もしない芸能人の言葉、言葉が他者性を帯びているのはこういったことからくる。尊敬できる人の言葉を真似してみるのも手だ。しかし、その尊敬できる人というのも誰からを尊敬していたのだ。追って行けば死人に行き渡る。現代は死人と会話ができる。記録がそうだ。記録があるから過去を構成できる。思い出すことができると信じているが感覚はすり変わり細胞も、悲しいかな変わっているのだ。その中で僕は尊敬できる人を身近な人に設定することができるか。そして、この日本語はなんだ設定なんて言葉は平安時代にはなかった。翻訳言葉だ。異物感がある。僕は言葉に敏感だけれども、その語源を探ってああだこうだは言わない。機械に使う言葉を人間に当てはめたりするのが、僕は許せないだけだ。許せないという感覚さえぼくはもうないのもたしかだ。だからといって、放置するわけもない。黙っているのだ。これは僕が彼女から受け継いだ無意識の転移かもしれない。