アウトプット

相手の視点に立ってみよう

現代について

 現代は肉体的快楽の時代である。感性は鈍磨し、肉体の刺激に反応する人間のみがこの時代を謳歌することができる。もちろん流行がある。刺激に慣れた肉体はさらに刺激を求める。もしくは、静謐さへと帰っていく。私が選ぶのは後者だ。しかし、女性は前者であるようの思われる。そう思うのは、私が彼女たちの言動ぶりを見てそう思うのだ。彼女たちは決して直接的に感情を表に現すことは少ない。化粧のように感情を言葉で塗りたくり嫌なこともやんわりと伝えるように努力している。また、そういう態度が社会的な人間にとって重要であることは間違いない。平和な時代において活躍するのは女性である。男性はかないっこないのだ。敗北だ。荒々しい時代に、虐げられた女性の身分に男は今落ちるのだ。それを回復するのが戦争。戦争は男が権力を回復する唯一の手段である。しかし、戦争はするべきではない。死を伴う。当然に男性は淘汰される。運命で死ぬ。偶然で生き延びる。今の時代はゲームに熱中するしか男性の魅力を伝えることができない。しかし、僕はゲームが嫌いだ。面白くない。毎日できることではない。それは決して私が運動が苦手であることを意味しない。むしろ得意であるからこそそのプライドを保っていたいのだ。実に面倒な人間であるこの自分をいつも隣で見守ってくれる彼女に感謝である。彼女が僕の幸せを願って、僕は彼女の今現在とこれから先ずっとずっと幸せであることを願う。思うに、人は自分のために生きるだけでは限界がある。人の幸せを願える人。人の分も稼ぐことができる人。このような人が素晴らしい人なのだろう。内面に権力意識を隠していたとしても。自分の幸せを考えれば自分は不幸になるだろう。他人の幸せも考えることができれば、自分は幸せになれるだろう。そう思わずにはいられない。所詮独りよがりの幸せは長続きすることは確かにあるが、劣るのだ。僕は集団が嫌いだが、孤立した人間の集団に対する嫌悪感もまた嫌いだ。好きも嫌いも僕には選択肢がない。弱さを感じる。肉体的な弱さも感じる。それでいいのだ。わざわざ血の流れを食い止め心拍数を上げることはない。重いものを持って筋肉痛の痛みに気持ちよさを見出すこともない。なよなよとした感情が僕にまとわりついている。これは気持ちがいいものではない。しかし、僕はもう一方でよほど力を溜めているに違いないのだ。人はある行動と矛盾したところにエネルギーを溜め込んでいるのだから。優しい人は怒りへのエネルギーを溜めているのだ。だから、私はすごく怒れるのかもしれない。また、その怒りを持続するためのエネルギーも体に蓄えているのかもしれないが今の私にはそのエネルギーを発散させるにはもったいない気がするのだ。一体世の中について何も考えないほうがよほど人生を人生らしく過ごせるものなのだが、巷の人生に私は興味を抱かない。どうでもいいのだ。テレビは儀式ばかりで、飽き飽きした不快な人間関係を食べる嘔吐を抑える薬剤ばかり飲ませたがる。ネットもひどくなった。筋の通った意見を述べるだけの人間もいなくなり、変わった意見を述べる人間もいない。面白くなくなった。新しいものが生まれる感じがしないのだ。ロボットばかりが発達して人間の記憶力や感性は衰えていく。したばかりが、油性や砂糖を求めて体は太り頭は熱狂を求める。古代の祭りの儀式。野蛮で血肉を争い、死すら厭わない。合法的な祭り。法の番人も隠れたところで何をしているのか知らない。そんな状況。いったい誰かいないのか。他人にばかり期待する。自分はどうするべきか。ちっぽけな存在に気が向いて考えることもしたくない。どうすればいいのか。どうしたって大して変わらないだろう。賑やかであるか静かであるかのどちらかである。僕は静かであることを好みまた除術的な神秘の世界に魅かれる。集団で団欒し会話する楽しみを僕は幼少期の生活環境が影響しているため知らない。知らない世界に首を突っ込んで、やっぱり知らなくてよかったと納得して帰ってくるのもまた新しいことを始めた時の心構えか。嫌いなのは我慢である。何かを我慢しているとき人の思考は停止している。体も拘束され、不自由に犯される。あるのは、我慢をやめた時の解放感だ。そんなもののために我慢をしているのだ。我慢は強さではない。我慢しないで変わることが強さである。さて、まとめることができるだろうか。僕の言葉は意見か、人に読まれない記事に安住して濫り日本語を使用して一体僕は何を書いたのだろう。今日も過ぎていく。妄想にも形式があることを、妄想は決して自由でないことを僕は薄々感じている。しかし、納得がいかないのだ。誰からも理解されず期待もされない僕は自由だ。この自由を捨てることもできたろう。しかし、僕は捨てなかった。譲らずに大切に育ててきたのだ。魂を売り飛ばし、それで体を養ったことなど一度もない。これを生活不適合者だと罵るならば罵れ。存在を消したいのなら、無視すればいい。狭い視野の中四角いテレビが伝える意味伝達と儀式ばかりを見て育てばいい。大人になってそれなりに振る舞いを身につけることはできるだろう。しかし、やがて不満を持つだろう。僕は君たちの先で待っている。決して後ろにはいないのだ。僕は君たちの先を走っている、後ろにいるように見えるかもしれない。実際に後ろにいるのだ。君たちの背後に、そして話しかける。君のやっていることに楽しいのか?生きるために生きて、楽しいのか?儀式を催し嘘の涙を流して、それで感性を否定し暑苦しい大風呂敷の人間絨毯に包まれ肉体を感じ合い流れる汗も湿気も厭わない。僕を罵ればいい、バカだと。確かに、僕はバカだ。しかし、ぼくは天才でもある。