アウトプット

相手の視点に立ってみよう

バカみたいな記事が多い。数字で人が納得するわけがない。数字でいくらだけ嘘がつけるのか。数字は想像の発端でしかない。数字で社会を見る人間の貧困さよ。それが貧困だ。貧困貧困。そう文字を打てば打つほど自分が貧困になっていくような気がする。貧困さえ売り出せば金になる。記事が読まれる。読者の同情を買って記事を書く。読者の同情を内面化し、記事を書く。読まれることが大事なのだ。いや、違う。書くことが大事なのだ。数字でいくら客観的に世の中に何かを訴えても世の中の目がゆがんでいたらどうしようもないじゃないか。そう考えることはできないものだろうか。お金はあっても困りはしないとはいうけれど、そんなことはない。ありすぎたら、困らないので困るのだ。困らないので、何も考えず生きることができる。心配事は健康にシフトする。そして、気を病むのだから人間そう簡単にはいかない。そう思うのだけれども、なっとくしてくれる人がいない。なぜなら、そういったことは内面にとどめておくべき一人の人間の感覚でしかないのだから。感覚を話すことが大事なのだ。大事大事というけれど、それは誰にとって大事なのか考えたときにおかしなことになる。大事なことなんて、全部だろうと言いたくなる。限定するからおかしくなるのだ。大事であるというより、意識をそこに向けることで起きる何かだと考える方がいい。力学的に考えた方がよほど気が利いている。大事なことばかりしていれば、大事の先にあることを考えないようになり、その視野の狭さが人間を専門化し社会の歯車に変えてしまうのだ。私は歯車に成り下がった人間を悪いとは言わないし、それに抵抗しようとする人間に対して直接的に何も言わない。そんなことをすれば、当人を怒らせるだけだ。あるいは、奇妙なうすら笑いを与えられるだろう。実に不快な話だ。不快な話ならいくらだってできる。これが不幸ということか。幸福であることを望んだ瞬間に不幸に転落する人間。お金を望んだときに貧困に陥る。貧困を語ることで幾分気が和らぐ。逆は必ずしも真ならず。一方通行である。どちらが優位であるのかは明白である。優位とは優れているというわけではない。むずかしいところだ。何かこうつかめないものが周りにぶよぶよしている感覚である。これをどうしようというのか。皮下脂肪よりもタチの悪い内臓脂肪に侵されている感覚。どうしようもなく意識を鮮明に緊張状態から来るストレスに肌は荒れ放題。さてどうする、次はどうする、次の次はどうする、そして、いつ休める。なんとなく生きている人間は肌の調子もいい。人から何かを奪うことに喜びを見出している人間についてかたるのはやめよう。歳をとるにつれて、私は他人の気持ちを細かく想像しなくなった。それよりも自分の気持ちがおかしくなったのか。もわっとしている。この部屋の中で。電車の走る音を聞きながら。目の前にはテレビがある。どうしようもないテレビがある。四角い置物。こちらを見つめ返している。四角い瞳に僕が映る。あられもない姿が映る。刺してやりたいとも思わない。ただ、腐っている気がする。僕が腐っているのだろう。何かこう速やかに行動できないところがある。それは動機が血流を加速させないからだ。動機のせいだ。すべて動機のせいだ。僕はどうすればいいのか。親は無言だ。誰も僕に未来のアドバイスをくれない。僕は遡及的に親を憎むだろうことを今実感する。もうだめだろうと思う。ストレスが吹き出物になってからだから噴出する。どうすればいいのか。どうしてもだめだろう。しかしどうかしなくちゃんらない。どうにもならないのに。どうしたらいいのだろう。僕は一気に老けた。一気に老けて僕は頭がおかしくなった。頭がおかしいのか社会がおかしいのか。社会はいつも狂ってた。だから、僕も狂ってみた。こんなにも疲れるとは思わない。社会ってやつは、どうもドラッグをしているみたいにいつも元気で同じ顔してたまに強姦致傷なんてやらかす。社会ってやつはつまらないテレビ番組を作るために多額の費用をかけている。先見の明がないそうだ。規制ばかり。それは当然。規制して健康を守るためだ。親の不理解は心底なっとくいかない。あれだけ手紙で訴えたのに。私は金はあっても心は貧しかったと、思わせる親が憎らしい。お金ならいくらでもあったろう。心は私固有の育った環境である。星も入れてやろうか。親が憎らしい。憎らしくてたまらない。育児放棄である。兄弟もいないのに育児放棄とは。子供が悪いのじゃない。親が悪い。親を働かせる社会が悪い。お金である。今の僕の元では動機ではない、お金である。この考えに至ったとき、僕は自分の想像力の衰えていく様を感じた。さあ、誰のせいにすればいいのか。ターゲットを見つけ出す。誰のせいにもするなという。誰のせいにでもできるのだ。そして、そこから何か取り出せればいいのだ。まるでヤクザだ。因縁つけて金を巻き上げる。ヤクザだ。彼らの心には彼らの基準がある。それは、社会においてその基準なしに社会で生きていけない悲しみの形をしている。悲しみに形はあるのか。じんわりと襲ってくるのだろう。死にたいのなら自由に死ねる国があればいい。そうすれば、どうだろう。苦痛があれば死にたくなり、退屈ならば死にたくなるので、楽しさや快楽を追求し、果てにはドラッグに手を出して、その副作用から死にたくなるだろう。どうしようもなく死へ向かっているものらしい。どこに行ったって、ゴールは死である。今後の目標と聞かれたオリンピック選手。東京五輪で金メダルを獲りたい等々ありきたりなことばかり言っているけれども、どうしたものか。彼らの目標は死より手前に設置されている。死を超えた目標は誰の理解も得られない。目標は理解を得られるものでなくてはならない。集団的なものだ。集団が作り上げるゴールへのエントリーだ。個人的とは集団からの干渉がないことだが、集団はどうしても干渉してくる。個人的とは干渉しないことから始まり、相手の干渉が自ら生み出している干渉からくるというのを学ぶことだ。どうしようもなくこういう心模様を語るときにやはり優位に来るのが、何も考えていない人物たちであろう。彼らが能天気で素晴らしいと思う人間はバカだ。彼らこそ鍛え抜かれているのだ。神経質な人間は瞬間的に自らを窮地に陥れる方向性を相手に見出すと萎縮し、それを偽装するために清原のように男らしくなる。果てにドラッグだ。彼らの心は尖っている。人の心ばかり話す私の心は他人の中にある。私自身は心がないのかもしれない。しかし、そういう人間は私以外にも他にあるはずだ。人間であることから逃れられない。私はこの状況をどう解説すればいいのだろう。解説を聞く人間のあくびが見える。思いっきり、思い出話だけに徹したほうが楽だろう。動かなければ動かないほど頭の中は活発だ。それが私を緊張状態にする。誰かに頼りたくないのだ。うまく頼るとは頼られたときに断れない不自由をいう。それでも断れるというのならば、それこそ刑罰を受けない受刑者だ。彼らはこの世に数多存在する。罪を憎んで人を憎まず。彼らは、罪はないが憎まれる人間がいる。神経的な文章が続いた。今日はおしまい。