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 問題はどこにある。さて、話し合いたまえ。なんだかんだいって、僕の話す材料は外部にある。だからいけない。言葉は他者を必要にする。他者のいないところで、言葉をかわすならば、読書が一番だ。ネットメディアは、近すぎる。本音で話しているつもりであろう。しかし、それは醜い裸体に近い。裸ならみたがる、愚か者の世界だ。ネットなんて、自由だとか偉そうに言っているが、大して役に立ったことなどない。ただ、人間の感性を鈍磨させたに変わりないのだ。愛する力さえ奪ったであろう。大海原を連想させ、目の前の人を愛せなくなってしまった。嫌なことではないけれど。それで楽になったかな。こんな日は邦楽なんて聞きたくなくなっちゃうね。愛は冒険さ。邦楽なんて聞いてられない。ラップがいい。沈みたい気持ち。日本的なものを嫌ってしまう。幼い心というよりも馴染みのなさ。ありきたりなものをありがたがる心を失ってしまったのだろう。陳腐でも新しいものがいい。気がまぎれる。伝統には血が塗られている。それに戦慄することもない。汚らわしい。潔白でいたい。白で塗るのだ。自分を愛せないから。愛なんて日本にはない。あるのは恋だけだ。伝統は捨てられるか、別の形で残るだろう。翻訳語を多用しすぎている日本人。まるで、バッドセンスな人たち。統一性はない。つぎはぎだらけがよくにある。ふりふりの着物きて。最近の若い人は、台湾人の服装と似ている。Tシャツに短パン。アメリカンでもある。その格好ができる人間は決まっているのだけれども。おじさんでもいる。素敵なおじさんだ。もちろん、嘘に決まってる。ひ弱な脚を見せつけられて閉校している。ほっそい脚を見せつけて、短い足に、何を企んでいるのか。見られる嗜虐的喜びを楽しんでいる変人か。変人ばかりだ。普通の人がいない。普通の人というのは、つまり、どうでもいいとほおっておいてくれる人だ。いや違う。うるさいおばさんか。どちらもいらない。目の前から消えてくれ。この世に居残る権利だけ残して。なんて排他的なんだ。僕はあまり、いい人ではない。優しくもない。利益ばかり考えている。親の財産さえ自分の懐にれている。財布から正々堂々と盗み出しているのだ。目の前で。その仕打ちに、疲れていることも親は知らず。これは親の罪であって私の罪にあらず。しかし、茨木よう子はいう。人のせいにするな。そうだね。人のせいにしてそれで終われば、人のせいにし続けてそれに依存し何もしないで人生終わっちゃうかもね。それもそれでいいかもね。面倒な出来事の巻き込まれることなくいつまでもシンプルに生きることができる。親戚の様子を電話で聞いて喜ぶような無趣味になることもないのだから。やっぱりディズニーランドへ行って遊ぶなんて幼稚な真似はしたくない。けれども彼女は女の子だからそういうところへどうしても行きたいのだろう。しかし、僕は彼女に大人にさせられたのかもしれない。生きるのに必要のないものに執着する心は捨て去ってしまったのだから。つまり貧しさを身につけることに違和感を感じないようになり、過剰な装飾を喜ばないようになる。どうだか。彼女は僕なんかよりもずっと賢いし、その木なら僕を捨てて新しい男の元へ行くことさえできる。僕が彼女をつなぎとめるとしたらどこにその杭とロープはあるのだろう。