読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

 空虚。空虚のるつぼに取り入れた雑多な現象は撹拌される。人の言葉は使いたくないけれど、使うことなしに何かものが言えるのか。三島由紀夫のドキュメントを見た。それだけだ。じっとして画面にへばりついて頭は空想を掻き立てるほどでもない。何か実感が湧いてくるでもない。ただ、過去の追走に光をみてマッチ売りの少女よろしくぼおっと佇んでいるだけだ。空っぽでニュートラルな世界は生きやすい。喧嘩もないし、脅かされることもない。失態で自らを恥じることもない。空っぽでニュートラルな経済的繁栄を遂げた国が極東の一角に残る。それでいいという人間だろうか。三島にもわからなかった。彼は彼の思想を体現したのだ。彼の作品は彼のものだ。僕は人の作品を云々できない。成仏できない。日本語の記事も読む気がしない。横浜で小学生の列に軽トラックが突っ込んだ。男児が1名死亡した。その日は雨。外ではヘリコプターがけたたましい騒音を立てて視聴者のざわめきを代表している。他人事だ。僕は今、そう死と近いところにいるわけじゃない。いつでも死ねる。死ぬ可能性があるところに身を置いている。そういうとき人間は奇跡を望まない。ただ生きている今をありがたく思うであろう。生命尊重と戦争は表裏一体だ。中間色で抜け目がない。今僕は日本語の記事を読みたくない。読めない。話題が貧困で繰り返される日々の営みを読者に安心を与えるためだけの、また肯定感ともいうべき堕落を提供するニヤニヤ顔の人間には近寄れぬほど潔癖でないが、自分に意見など何一つないことに驚かされる。一体どうしてこうなってしまったのか。この事態を、つまりは中間色を好んでいるのかも疑われる。何もかもわからない。判断するにあたってその責任を取ることが、自分だ。それが自分だ。そして、三島は死んだ。