謗法に書き尽くして

 そうしてどうなった。ぼくは感覚を失ってしまった。思考力さえままならない。そもそも力がない。力を使わずに直感をつかってる。思い浮かぶことは、抑圧されている。そうでもしなくちゃやっていけない。どんよりとした曇り空が僕の夢を覆っている。枕の上で僕は暗闇の中眠りこけ朝起きればどんより今日の曇り空。いったいどうしたっていうんだ。それか過去の自分との比較。自己同一性を保とうと人間は躍起になる。昨日の私は今日の私に非ず。すべて忘れて私は同一性を失いつつある。対象が私の同一性を保証しまた拘束する。その不自由性にやるせなくなる。どこへ行っても私は私である。私から始まり私で終わるのだ。世界は。しかし、その後も世界は続いていく。それが、客観じゃなかろうか。私がいなくなったときの世界を考えることで私は今現在の私の感覚から遠ざかる。事故を滅却し客観に身を委ねる。決して日本人が欧米人に比べて劣っているだとかいう話ではない。欧米人を常に追従してきた。しかし、追い越すことは決してできない。日本人は程よさを知っている。自我を主張した時期もあれば、今のように阿鼻叫喚の大衆併合が流行る時期もある。季節に合わせて衣を変えるように、流行に合わせて考えも変わるのだ。それが自然な人間の生き方なのかもしれない。そのとき欧米人は何を思うのだろう。主観の燃焼を唱えた三島由紀夫は幸福であったろう。彼には燃やしてももやしきれないほどの観念があったのだ。それも1970年の11月25日に燃え尽きたのであるけれども。昨今は観念が忘れられ物質の享楽に身を委ねる。内側の刺激、内向的感覚への意識が希薄になり、外交的感覚つまりは受け身の刺激を求めるようになった。それも、内向的感覚に飽きた人間が外に刺激を求めるのであろうか。アプローチは一通りではない。果たして分析する人間はその立場を自らの経験の上でなくしていかに分析できよう・・・。論理とは、経験を飛び越えた形而上学的観念の齎す刺激である。僕の文章も緻密さを失っていった。キリスト曰く、説教者になるな。快楽に身を委ねている人間を咎めるな。彼らを説得できない自らを責めるんだ、と捉えることもできよう。余計なお世話は本当に余計だ。現在人間は金はあるが時間がない。内向的感覚にな時間がどうしても必要だ。一人の時間といってもいい。そういった社会の中で、社会的に成功した人間を賞賛する馬鹿なテレビの視聴者からの臭い誘惑から逃れることができないのも、名声を求める人間の、つまりはどんな形でも良い、どんな人間からでも良い、それが阿呆でもいい承認が欲しいのだ。この根は深い。なぜ承認が必要か。なぜ承認されていることに気がつかないのか。永遠に求め続ける。それが長生きの秘訣ですと、老人は言うかもしれない。それでいいのか。君は言うだろう。Do it! 下手な考え休むに似たりと。行動あるのみ。行動こそが唯一の人間存在だ、と。その行動の動機に自由がなくてどうしてこれを自分だと認められることができよう。アルバイトにしろ工場にしろ、なくなってしまえ、僕の嘘の過去をひけらかそう。過去の話は常に嘘だ。もうないのだから。それに、例えば過去から今の僕を成立させる試みもまた、同様に、人間はもう人間が嫌いでたまらないのだ。特に日本人は他人が大嫌いだ。日本人は傲慢である。韓国を引き合いに出し、日本人の傲慢さを咎めると反発するだろう。心当たりがなければ反発することもない。しかし、三島由紀夫は傲慢さを賞賛したのだ。私には訳がわからない。一体何が良くて何が悪いのか。それが、果たしてどういった結論になるのか、わからない。わからないからこそ試行錯誤の余地が残されている。老人は常にアドバイスをする。彼らは試行錯誤の余地がもうないのだ。常に回答を迫られている。人生の?どうだろう。話が混乱してきた。僕の頭はこの話をまとめようと必死になる。おそらくまとめきれないと判断している。そして、次に僕は自分が他の話を持ってきてそちらに話を進めようとしている。開き直ってもいる、話をまとめる必要もなければ話に論理的一貫性を与えようとしているのはつまり、その論理的一貫性を支持する社会の存続を望んでいるからであろうという気がしてならない。つまり、僕はこの社会が気に食わないのだろう。論理的一貫性をなし崩しにしてやりたい気持ちが高まっている。僕がおかしいのか。自己主張は阿呆らしい。意識の流れを常に記述するのだ。それがボケ防止になれば幸いだ。意識の流れ。それを記述すれば一体何が見える。わからない。わからないところへ僕は連れて行かれるのか。いや違うだろう。おそらくきた場所に来るはずだ。自分を忘れない限り常に同じところへいくだろう。自分は必ず同じところに来るのだから。そうでなくちゃ、自分が成り立たない。初めての土地を踏んだとき意識は記号に向かい自己同一性を見出すが、例えば、ニューヨークの赤信号。しかし、無意識のレベルで、人間の意識が自らの内的感覚を把握できないところで、確実に変わっていくのであろう。そうでなくてどうして、どうして海外へ行くのだ。見慣れた風景を愛することなどできるだろうか。それは一種の挫折である。一種の牢獄である。常に僕は何を考え何を目指しているのか書かなくちゃならない。しかし、僕はダメだ、一向にそういった自分の考えを常に吟味してしまう。それを潰してしまう。同じだけ人の希望も潰すだろう。僕は人にあきらめを説くことに関して少しだけ自信がある。しかし、イエスはいう、説教はノーと。