アウトプット

相手の視点に立ってみよう


11月11日の夢

夢を見た。僕をビートたけしが活火山の爆発により形成された火口に投げ込んだ。エメラルドグリーンの色をしていた火口湖。綺麗だったが、やはりどこか毒々しい気配を帯びて近寄りがたい。ふいに投げ込まれたゆえ、驚きはなかった。泡が海面へ上げって行くのが見えた。火口湖の淵から遠くまで投げ込まれたが、帰ってくることができた。そして、その前に僕は海の彼方にある艦隊に砲撃された。はじめは小さな爆発だったが、のちにキャノンボールのようなものを次々に打ってきた。砲撃を、ぼくは避ける。というより、一定の間隔で砲撃してくるため素早く走ることで当たらずに済むのだ。僕の背中を通り過ぎていくキャノンボールを肩越しにいくつか見た。ぼくはなかまの死に憤慨し、これは戦争だと思った。勝たねばならぬと思った。戦争が始まれば平和という目的は忘れ去られてしまう。それから、僕は幅の狭い艦隊に大勢の者たちとともに乗せられ海に出た。太平洋戦争で負けた相手に、おそらく砲撃してきた艦隊の所属はアメリカだと夢の中で僕は思った。アメリカ相手にこの艦隊で戦うのかと、太平洋戦争の繰り返しを予期した。負けても構わない。ただ、戦わなければ気が済まないと思ったのであろう。私はそういう点では日本人だと自分をつくづく思った。のちに、宝探し、三種の神器が険しい岩と波の浸食により形成されたところにあるというので探しに行く。釣竿がでてきた。この釣竿は確か前に使っていた。砲撃される前だ。記憶があるだけで実際には使ってはいなかった。そんな中、声がした。さらに、艦隊が砲撃してきたさい、東京もやられるだろうと。僕は走って本部へ向かい砲撃された旨を伝えた。そこまで必死に走った。そして、どうしても戦わねばならぬと強く心に思った。

 

覚醒した僕は夢について語る。砲撃という事態が何を意味するのか。戦争だと、嬉しく思ったことはなかった。ただ、なぜ打ってくるのか。なぜ戦争が始まるのか。ふとしたことがきっかけで、いや、きっかけもなくただボタン一つ押せば戦闘は開始されるのだろう。動機などそこにはないのだ。戦闘に高尚な目的などなく、暴力による快楽の果たし合いにうつつを抜かす。何も戦争に意味などはないのだ。その行為がお祭りのように楽しいのであって、戦争をした後のことなど鼻からどうでもいいのだ。戦争。それが目的なんだから。目的と行為が一つになった時に人間は享楽に陥るのだろうか。そうでもしなくちゃ、暴力によるその場での解決を人はそう望まないだろう。膨らむ軍事費が戦争を夢見る者たちの妄想を膨らませもしよう。戦争を遂行する政治家が前線へ行けばいい話だが彼らの生来のサディスティックな振る舞いは、彼らをもっともっと前線から離れた地下の核シェルターにでも引き込ませるであろう。この国に核ミサイルを打つという電報を受け取った日には、おそらくは家族ともども核シェルターの中から外の様子をモニターしてみているのだろう。ワイン片手に。僕たちが映画を見るように。僕がそう思っているのは、僕がそうしたいと願っているからだろうか。別段僕の言動に何ら審判を下す神を想定するほどに信仰深くない僕の性格からしてみれば、また、そういった信仰から少し自由になり罪悪が気にならなくなった僕という身からしてみれば、些かもこのような妄想を繰り広げる僕が変人として、近寄りがたい称号を社会から与えられ手にすることを何ら厭う理由もない。例えば、ある表現手段は2度と使わないというのが僕の手法であるために僕は決して教師には向かないだろう。教師というのは安定的に情報を伝えなくちゃならないし、教師に限らず人間社会を運営するにあたってはそのフライジャルな気持ちの力動を無理をして機械化し固定化し押し込め、壊れたエンジン同様に直す暇もなくとにかく活動していなくちゃならないのだから。細かい秩序を法律で決めるが、決めた当の本人がその法律を実行する立場にはなく観念的にまたは彼女たちの名誉に関わることに使われるだけであって、法律作成に携わったという内容希薄の賞状を片手に肩書きとして人に見せびらかしそれに周囲からの賞賛を求め集宮の羨むポジションとやらを要求する。誠に女の自画自賛はそれとなくなされ、男は本気でそれを素晴らしいと拍手せねばセックスさせてくれないとは。なんと、嘘っぱちな社会だろう。それは、僕がやりかねないことであるし、現にやっていることだ。誰かもっと別の人がうまくうやりかねないことでもある。そういったことは僕は好きではないしやっている本人もいい気持ちはしない。けれどもどうしても法律を作らなくちゃ仕事をしているということにはならないというのであればどうであろう。実際命令する人物がそう多く必要であるとは思われない。国会議員削減もそう言った理由からではないだろうか。皆が軍の指揮命令を担おうとしている。戦うためには兵士が必要なのに。兵士よりも指揮官が多くなる。今の時代はそうだ。それを無理をして指揮官になろうとして周りが折れ、そのものが指揮官になれば、周りの者は納得せず言うことを聞きもせずその国は負けるであろう。私は国が負けても何とも思わない。国が負けても国とともにあろうと思っているからである。そう言った覚悟なしに何を愛国心と銘打っているのか。愛される者が傷つくのがよくない。守ってやりたいという過保護が何を生じさせるのか。自分の思うような国にならなくちゃ気が済まないのだ。国に忠義を果たすつもりが、忠義を果たさせるよう国に要求して国を硬直化させている事態になっている。国の言うことなど聞く気はないのだ。国という威光をかりて個人が好きかってしたいのだ。また、其の威光のもとに自らの悪癖は光に覆われ光源となり周囲からみえなくなる。しゅういのものがてらされたかれらの動きをみるようになる。卑怯であるし、怠惰な者が国に支えているという状況である。一体この国の指針をある国との相互関係なしに決定することができないという状況がおかしいのかもしれない。東南アジアに工場拠点を移した時に始まったのだ。彼らはものづくりを単純労働と揶揄して何一つ乗っているエンジンの構造も知らない者たちが、物など作るのは金にならないからとブルーカラー呼ばわりして誰かどこかに安くでも働いてくれる人間たちを求めて世界中を歩き回るのだ。もっともそういった人間がいるのはおそらくは戦争が終結した後の国であろう。そこにはもはや工場を作るだけの統率力はないし、人々は銃を捨てるか、こめかみに銃口を当て頭蓋骨と十弾どちらが丈夫であるのか試し合う。生きている者たちは手持ち無沙汰な時間をどうすればいいのか考えあぐねている。考える力もないほどに飢えてもいる。戦争終結の地に人を殺せば殺人罪で死刑だ。つまり、人を殺す際には許可が必要なのである。そして、荒廃の地に平和と資本と繁栄を持った都市が工場を建設し安くで人間を雇いこれまた安くで日本まで物を供給しうりさばく。最近は日本周辺の土地では有事はない。中国が今まで其の工場の役割を果たしてきたのだが、経済成長とともに安くで人間を雇うことはできなくなったのだ。つまりは、恒久的な経済成長は期待できないのだ。其の時に者の所有権を争って宝くじの奪い合いが始まり法廷闘争が盛んになる。口でもって相手から財産を奪うという仕事が増えるであろう。と、まあここまで書けば十分であろう。私は経済という人間の心を離れた人間の習慣を心から軽蔑している。経済活動として、人間が物を買う行為を名付けている者たちがいる。実に不愉快だが彼らはそう言った偏見をモデル化し理論化して実際の人間生活に応用しようと椅子の上で踏ん反り返っているのだ。私も椅子の上に踏ん反り返って読書に時間をさいて見たい者だ。


話ししてりゃ自分の生活なんて忘れてられるからな。自分の生活ほど妻rない者はない。書くにしても誰も知りたがらないだろうし、知られたくないしね。歌っていれば、歌う行為に拘束される。安心して型にはまれるんだ。衣食住の、家にあたるね。食べてる時もそうかもしれない。何かに熱中してるとき生活を忘れる。僕らは生活を常識を忘れていたいんだ。常識かというバカ小狡い卑屈者たちの言うことなんて聞いていられない。みな戦争してよが荒廃しても、それで楽しいとおもってるんだ。未来に想いを引き継がせるなんてバカなことは考えちゃいけないぜ。わかったかい。戦後の君たち。ぼくは?ぼくは死んでるんだ。死んだ立場から考えてる。生きていることにできることならなんだってやっちまうよ。最後は死に至るんだ。死は、白をイメージさせる。白を好む人間は死にたくてしょうがないんだろう。葬式が似合うよ。あれだって、白と黒だろ。モノクロじゃないか。おそらくモノクロは死の色だね。僕はもうなにも言い訳しない。できないことをしようとするのがいけないんだ。こと、つまらないことに対してなにかそれをすることで世の中の人間に言い訳が立つようなことをしなくちゃならないなんて、僕ほど世の中を気にしている人間もいないだろう。気にしすぎて動けないんだ。よとずれることが嫌で仕方ないのに、ずれることに喜びを見出すんだ。倒錯的な喜びを。そして、破滅的な人間になっていく。僕は常識家ほどに常識に通じているのかもしれない。なぜ、断定しないのかというとそうでないかもしれないから。いずれにせよ、どちらでもいいのだ。書くために書いている。そんな文章だから、読むことは想定されていない。少なくとも想定されていないと思われた方が得策だ。なぜかというと、読ませる文章を書くことができないと捉えられるとずいぶん困るからだ。困ると言っても僕は困りはしない。好きなことを書いていると言ってもそれにも無理がある。本当に好きなのか疑問を持つようになるからだ。だから、好きかどうかを確認するのはもうよした方がいいのかもしれない。人間は皆孤独であろう。私も孤独である。このくらい、つめたいへやで。なにも僕はしていない。世に尽くしちゃいない。なんと無為な時間を過ごしているのだろう。老荘思想の手をかりたい。しかし、老子の本は一冊もここにはない。