読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

未来。

 何を書くのか迷った。書くことは記録ではない。書くことで自分が人間として独立して周囲の阿鼻叫喚の群衆から離れて一息つく行為である。休息の行為であるし、自らの身体の声に耳をかたむける感性を保つための行為である。私の書きたいことは主に、現代社会についてである。盲目的な人間の行動と合理的な人間、欲望のままに生きる人間が混在するこの社会において統一的な見解を示すことは、病理的である人間存在を否定する息苦しい社会になる。狭い見識を持ち寛容の精神を失った者が現代において周囲にもてはやされているように感じる。当人はそれを利用している。自分に全く不誠実な人間がどうして信用することができようか。今の日本人が失っているのは、外面だけよくしておけば内面はどうでもいいという貧しい思想だ。物ばかり追いかける。心は停滞したままで子供ができ大人になり、教えることは自分が習ってきたことばかりだ。こうすればいああなると、教えるようになる。現代は混迷の時代と言われるがそうではない。個人個人の違いを認めることができず、また、それらと共同することができない者たちばかりだ。現代は、私にとって生きづらい社会だと言いたい。しかし、私自身私のことをよく知らないのだ。私のことがわからないのに、なにが私によくてなにが私にとって悪いことなのか判別などつくはずがない。だから、習慣があるのだろう。世間があるのだろう。世間は確固としたものをもっている。それに依存する。その代わりに、自らを失う。自分を探すのではない、自己を理解すること、自分の考えを嫌われてもいいから口に出し書いてみること。それをしない限り、世間の持つ病理的な精神にとりつかれ、同僚もよそよそしく、連帯意識も失われ人間性は死ぬだろう。生きることばかりが人生ではない、いかに死ぬかもまた人生である。三島由紀夫の未発表肉声テープが見つかった。自決する九ヶ月ほど前のテープだそうだ。自らの小説の欠陥について述べている。「劇的すぎるところ」だと、三島は語っている。「大河のような大きな川のような小説は書けない」と。三島の小説はどれも色鮮やかに文章は、タイの極彩色に似通っている。そう感じるけれども、読んだのはずいぶん昔のことだ。記憶として残っているのは印象ばかりで、内容は覚えていない。内容を話すだけの機会が設けられず忘却してしまった。私の今書いている文章も忘却されるのだろうか。内面を追従したとして何になるのだろう。世間に通じている法則について論じてみたところで何になる。書くことに飽き飽きしている。それは、自分の想像力が制約を受けている感じがするからだ。それは、昔であれば情熱であったものが、今となっては社会に対する不満が端を発したものばかり書いている。社会はいやらしいほどに人々の御用を聞き、ある人間にある印象を与えようとする。私はここで自由についての話を少し展開する。私がどう思われるかさえコントロールしたいのだ。私はいい人であるけれどもそれを意識していないと。そのためには、まず自らを欺かなければならない。小説家はうまく自らを欺いた人間だと思うのだ。そうでなければ、文学は成立しない。客観的に自己と見る際にも、自己の印象を操作する行為が情熱を伴って出現しない限り、小説なんて書けない。そこで私はこういった疑問を持つ、私は小説を書いたことがない。そうだ、書いたこともないのに、小説について話すことなどできるはずがない。否、できたとしても想像的なもので、実際的ではない。私は小説という言葉を本来の意味ではなく、私の想像力をかきたてる言葉として使っている。しかし、あまり大きな源泉ではなかったらしい。私はこれ以上小説という言葉を油に火を燃やし続けることはしない。できないのではなく、しないのだ。子供時代、人間は性的衝動を抑圧されるというが、子供はそもそも性的不能者であり、その事実を隠すための方便として抑圧の機能が働いているのではないか、と柄谷行人がある本で言っていたが、人間は状況による不可能性で自らの全能感にも近い欲望を制御しているのである。もしお金があってスペースシャトルに乗れるとしても、乗る人間は少ないだろう。