アウトプット

相手の視点に立ってみよう

感性が鈍れば。そう検索する。自ら解決しようという意思がない限りいつまでも検索を続けるだろう。検索とは何事ぞや。私の中に料理のレシピがないのは悲しいことだ。クックパッドがある限り記憶力を発揮しなくてもいい代わりに、創造的な料理を作ることもできなければその楽しみもないであろう。あるもので作るという料理の楽しさを知らないのだろう。小説を料理にたとえてもいいかもしれない。およそ、いけないということはないのだ。何事も初志貫徹できるのならば。できないことをできるというのがいけない。それは嘘になってしまうから。嘘にならないように頑張ってそれでもダメなら嘘をついたことに対して免除が与えられる。大いなる嘘も嘘をつき続ける限り、成立していくのだろう。文句も言わない。文句はいわない。体力がない。そうだね。僕は私心をすてなくちゃならない。ひどい記憶力は自分の誇示する主張を忘れないために潔癖に過ぎないのだ。新しいものを排除して昔のものを温存する方法として記憶しないのだ。話を聞かないことと似ている。過去の起こった出来事と照らし合わせることににている。顔が似ているからといって性格まで混同するようなものだ。私のような人物は、実際に起こっている出来事よりも、そうあってほしいという気持ちの方に理が傾く理想的な人だから話していて楽しくないだろう。特に今は楽しくないだろう。僕自身、バカにしているのは現実的生活だ。虚礼なんてものは僕にできることじゃない。可能性を締め出しているのじゃなくて、ただ、僕は小さな可能性に固執しないで大きな可能性に利を見出しているだけなのだ。楽して儲けようなんて心持ちを持っていいのは、苦しい労働者だけなのだ。いくらフロイト精神分析論を否定しても、フロイト精神分析論は誰も知らないじゃないか。読んでもいない書物を否定する。知らない人をこっぴどくいう。これは時間の無駄じゃないか。時間の浪費は大いに歓迎する。時間が素早く過ぎ去ってくれれば、冬の寒い外仕事もすぐに終わる。冬もすぐに終わって暖かい時期に仕事ができる。夏も過ぎすぐに冬が来る。季節はめぐる。いましか出来ないことをするべし。しかし、もっと僕が言いたいのは。(と、書いてみたが。特別に言いたいことなど何もない)江戸時代は夏に建築工事を実施したらしい。現代はバカの時代か。寒い時期に外仕事をさせるような奴らだ。金を出してる人間は暖かい暖房器具の中で目を乾かせながら額に汗し笑仕事しているのだ。こんな待遇の悪い世の中を変えるべく僕は生きているんだ。しかし、話のわからない奴らが多い。聞く耳を持たない。自ら目を潰し、耳を耳かきで刺して血が流れてるゾンビのような輩が丸の内をうろちょろしてやがる。胸高々に挙動不審にあたりを見回しながら生きている金だけ集める人間を心の底から軽蔑する。最後の拠り所は論理であろう。論理ってもんが現代においてどう扱われているのだろう。感性で生きている方が素晴らしい。価値観さえ論理に振り回されないで済むからだ。体調を壊しても感性で治す。感性の時代であろう。同時に人間の復興であろう。価値観を押し付けてくるニュース、ドラマは見ない方がいい。生き方を矯正して興味の幅を狭めるようなテレビは見ない方がいい。お笑いばかりが人生じゃない。テレビの見過ぎは女に嫌われてしまうだろう。中途半端に何か知るより、何も知らない方がいい。何も知らない方が自由に動き回れる。僕は自由に動き回るために忘却をするのだ。

 

 どうやら僕は他者を追い出してしまったらしい。