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ネットバカ

 ネットは人をバカにする。頭をボケさせる最善策と言える。ネットでは体力の消費を考慮しない考えばかりが先行する。家にいながら世界の景色を見ることができる。想像力が人生を豊かにするのならネットは人間の生活から想像する楽しみを奪い、ネットを通して世界をみる癖がついて対象との間に距離が発生し、手の届かないところへと対象が逃げていく。ネットをしている時に脳は新しいものへの畏怖も忘れ新鮮さも忘れ感覚的なものを取り去っていく。根本には現実世界からの感覚を除去したい気持ちがあるのだろう。生きている世界を楽しくするよりも見つめることから逃げることの方に意識がいってしまうからであろう。酒もタバコもしないとなるとその傾向がなおさら強くなっていく。ネットに依存し、ネットを通して世界を解釈するようになるのであろう。ネットはいわば世間の教科書である。本当に大切な感覚を養わずに、また、感覚から得られた情報を解釈する想像の源泉がネットになるとは恐ろしい。ネットは、タバコや酒よりも強い依存性を発揮し、また、人間にとって害悪でしかない。ネットで欲望は消費され多くを望まないようになるとしても。それにしても、ネットで音楽が簡単に手に入るようになり自分に合ったものを探すのが容易になった。あるもので満足するよりも、見つけ出そうという気分になるのがネットである。探せるのだから探すのだ。ネットもあんが使いようによってはとても便利なのだろう。しかし、情報が少ないからこそ人は安定するのだし、安定を壊すような想像力を発揮して悦に浸りひとり楽しみにふけるということもあるのだ。ネットをしなかった時期があるが、世界がよく見えた記憶がある。単純に若かったせいもあるのかもしれないが、世の中を歩いている人たちが見えた。今私は世の人たちを歩かせないようにしていると思う。互いに、ネットの世界に没入することで視線を逸らし外の世界で自由に振舞うことができるようにもなったのだ。それにしても、そのような世界は実に私には恐怖だ。やはりネットがなくなってしまうのは悲しいことであるけれども、無くなるとしたらの話がだ、ネットがなくなったとしても新しいネットに変わるものが出てくるだろうしネットの代わりになるものが出てこないとしても、たいして変わらないような気がする。私はたいして変わらないだろう。私は私を変えたいと思っているようにも見受けられるこの文章に自分を表すように説得したいのだけれどもなかなか文章という形で私の意識が取り出されることは少なくなっていったような気がするのだ。もしかしたら、あまりに書きすぎたせいで私は文章という表現方法に飽き飽きしそのあまりに形式的な認識の方法に敵意を感じ反抗心が沸き立っておかしな文章を平気で書くようになっているのかもしれない。すべてが推論であるから断言するのしても疑問の余地が残るのは当然であるからして、ある人々の労働は実に断言的でやるべきことが決まっているから太陽が沈む時に感動したり規則正しい動きをするものを見れば感動するのかもしれない。偶然性を嫌うこともそういうことから来るのだろうと思うのだ。私自身何かを失っているような気がするけれども気にしないようにしているけれども気にしないようにするのは難しいことでおそらくどこか心があるとしたら心の片隅にて悩みが鬱積し腐って腐臭を放ち人々が顔をしかめるような自体をすでに招いているかもしれないという危機を人一倍持っているのだろうと思う。このストレスから私の気はだいぶ弱っていると感じているけれども有効なる手段にてこの気を強めようとだいぶ策略指定けれども何一つ実行に移すこともなく進んでいるのが今という時間である。人の自慢話ほど貧しいものはなく嫌いなものとは触れないことが英気を養うための唯一の手段であるとこうして手段を一つに絞ることでなんとか一つくらい実行に移せるように自分を鼓舞しようとするも失敗してしまうのだ。失敗というよりも、私はこの世の中が持っている暗黙知にだいぶ懐疑的な眼差しを持っているのである。買うといえばそこで売買が成立するとしたのは裁判所であり、別段二人の間では違うことが起こっているのである。一般に恋愛という事象もそれに方法論的なところがあるわけではないはずであろう。恋愛とはどういうものでこうする掟があるというのが実に恋愛の特徴であり自由恋愛なるものはただ親という存在を消去しているようであるけれども、親という形の代わりに財産というものが幅を利かせているというほかないのである。もちろん親も相手の財産をつけ狙い結婚させようとしているのが明白なる故に、親という存在が財産という形に変わるということはありえないのだ。だから私の言っていることは間違っているのだけれども、この批判的な形式を見出すまでが私の文章なのだからしょうがない。自己完結型だとかなんだとか人はそれこそ己を脱したような物言いをするけれども、ちっとも自分というものを忘れることがないのだ。相手に従えばいいように思っている。なんとも悲しい出来事ではないか。ネットにて誰からも山道を得られないような文章をひねって断言的な物言いをするよりもそういった覚めた目を持ち続け冷めさせ続ける方がよほどネットの言論にふさわしいように思えるのだ。ネットの言論において持論を展開する場合それが炎上するか目立つための小狡い手段でしかないのだからなんとも言えない。ネットでの言論をそのままに現実社会にて行うことも今は珍しくない。トランプ大統領や安倍首相を見ればその大言壮語も計り知れず、福島のことは忘れて日本国民を使い経済を回してなんとか今の生活を物質的に続けていこうとしている。当然貧すれば鈍するであるのは確かではあるけれども、なぜか強みにかけているのだ。へらへらしていれば、みんな仲良くしてくれるであろうと思っている節があるのだろう。日本人のこういう無意識なる互いの起床をこう明白に感じるのは全くもって不自由な心持ちがするのだけれども。いかなる時代よりも今の時代のこの閉塞感はお金がないことから起因するというよりも経済第一で進めてきた結果経済なしでは人が動きもしない世界を作り上げてきたのだろう。カネがなければ何もできないし金がなければ諦めるという時代を作り上げ、金が人を動かすための大きな力を持つと考えているのが日本人であり相手の鐘に目をつけて結婚したにもかかわらずカネ以外の同期出会いを求める女がいるのも確かなことである。カネがないと当然貧しいということになるけれども、貧しさについても詳しいのが金持ちだと言わねければならない。カネがある人間はカネがあるだけでは豊かな気持ちになることができないことは知っているけれどもカネがあることから来る余暇の使い方で気持ちが楽になるのを知っているのだ。要するに、目先の利益を追いかければ小さな快楽を少しずつ摂取することになるのだけれども、大いなるものを見出すことができず矛先がくるくる変わって大河の流れのような心持ちからは甚だ遠く落ち着きのないリスのような人間が増えてくるのであろう。日本人は小さいし小柄だからそういった節操もない落ち着きない振る舞いが好まれるように思われる。そういうことをぼんやり考えながら過ごす今日という1日のなんと落ち着いていることよ。私はどうも自分という存在について考える時間というものを持ちながらそれについて考える忍耐にかけているように思われる。それは私が私に興味を持っていないから起こる出来事なのだろうとも思われる。私という存在のちっぽけさを物質やふるまいによって変えようとしている。私はもしかしたら商売人にその虚栄心を利用されてしまったのかもしれない。ある人を動かしている源を知ればその源泉から利益を得ることができる。それをするのが商売人だとすれば、それを指摘するのが私だと思うのだ。なんとも人を決めつけるような言葉は慎んだ方がその人を理解する上でとても大切であるように思われる。早く結婚したがるような女はやはりせっかち節操がなくうるさくすぐに気持ちも冷めダメである。