アウトプット

相手の視点に立ってみよう

今こそ宗教学を

 現代の社会は腐っているという時にそこに僕が住んでいながらなぜ腐った社会を捨て去ることができないのかという問いを自分自身が追いたくないがために今の社会は最高だという手法は約二たちはするだろうがある種の人々にとっては反感の種になるだろう。私が嫌うのは嘘であるけれども嘘なしに生きることは極寒のシベリアを衣服なしになるような行為であり死に方も悲惨であろうから私はやはりぬくぬくと着物を着て家まで作り火を燃やして大ウソに嘘を上乗りして時間つぶしをするのだろう。この時間つぶしが何とも言えないほどに長い間続く感が得れば手の届く範囲に拳銃を見つけるやいなや興奮した脳が私の右人差し指の冷淡なる行為で死すことも考えられるだろう。もっともいけないのが家にい続けることであろうけれども私は社会的に幽閉されているので外に出られずここに居座っていると考えるのはどこに暮らしてもあまり変わらない事実なようだ。私は何とも自分が不誠実で計算高く狡猾で後先考えない社会に生きているとはとても思えないような整体をしている規則はわきまえた人間であるけれども私がこのようにまるで平気な顔をしているのも社会で生きることにこなれているからであろう。いつまでもおどおどしているから外へ出る時に力が入って顔面はぐらつきあげた口角は痙攣し続け顔の筋肉は張り詰め一体どうすればいいのかと自問自答する力も気力もなくあるがままに写生を続けてみれば、自堕落な文章ばかりが電気代の代わりに書き上げられて、強烈な皮肉に込められた知性の片鱗も正義の鬱陶しさも説得のいやらしさも全て体力で吹き飛んでしまうような、そういった事態を私は経験しているのだから何か人に教えてやれることもあろうけれどもそれを知りたいと子供が望んでそれを養う大人からしてみればただの自慢話に他ならずやりたかったことをやれなかったという後悔と憎しみを一身に抱いて教壇に立つことなで誰ができよう。たとえ私にそれができたとして、てきのいないところはたのしいばしょではなくやはりどうかんがえてもにんげんにはてきがひつようでていがいなければまったくえいせいてきなかんきょうのなかよわよわしいびょうげんきんにくるしめられちりょうのほうするくすりの効果が病原菌の人体に及ぼす害を越すこともあろう。要するに、この世の中についてどうでもいいという宣言でもあるのだけれども私の中にこの世の中ほど面白いものもないので嫌々付き合っているという次第なのではないだろうか。無理に断定口調の文章を練り上げて満足しようとしたが私に素直じゃない文章を書く苦痛を免れる方に今奔走を続けているこの私が一体どこへ行くのか誰も知りようがなければ神様さへ欺きかねないない私が、私自身にうんざりするほどに振り回されているのもまた事実であろう。