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読書遍歴

 読書遍歴を披露したからとして一言も誰の参考にもならないことはもちろん、自分でもなんの役に立つのかわからないけれども書きながらなにか見出せるのではないかという期待感がある。しかし、その期待が裏切られようとも何も思わない。書くということ、タイプするということが何をもたらすのか。それを問いたい。例えば、ペンを握って文字を書かないことで忘れられる感じがある。感じを知らないということはどういうことか。かけないということは知らないということではないにしても音としては頭にあるけれども文字面として知らない。声は知っているが顔は知らないという。それでは、完全に知っているということにはならない。誰を呼んできたのかは私にとって非常に重要だ。過去三島由紀夫をはじめ様々な文豪ない品の知られぬものたちは読書遍歴があるはずである。私はその一端として自らの読書遍歴、著者遍歴、いわば浮気の遍歴をここに書きたい。浮気に変わりなく、移り毛であると占いにはでているけれどもそれを証明することになりはしないかと内心ワクワクもしているのだ。全てが占いのように進めば退屈ではあるが安定はする。私の読書は人間失格から始まった。活字に疎かった私が一夜にして読んだ本だ。それから太宰に傾倒したが、太宰を嫌いだと面と向かって言った作家がいた。三島由紀夫だ、私ま彼の文学にぞっこんで彼の文学は底知れぬ何かを感じたのである。彼を超える読書感を得たのは先のことである。三島の自宅にも行ったし、市ヶ谷駐屯地を通るたびに感慨部外ものがあった。山梨の三島由紀夫文学館へも行った。それから、私は芥川龍之介を読んだ。哲学にも手を伸ばし、精神分析学のジャックラカンの解説本をよだ。解説を何冊も何回も読んで、エクリへ向かった。わけがわからないと口々に人々はいうが、私にはつかめたような気がする。それから、太宰治、芥川を交互に読み、彼らの文章と時代背景に魅せられた。現代よりももっと自由な空気を文章の背景に感じ取ったのだ。今は面の皮さえ暑ければ何にでもなれる。真なるものの追求という統合を外れて書くよう好きなように考えぬかれることもない思想の垂れ流しで学校教育は運営されている。それから小林秀雄に走った。彼は彼自身の価値を打ち立て舌鋒鋭く物事を見る目に私は頼り甲斐を感じたし、自由を感じた。そして、シンパシーを感じた。人がよく考えない物事の価値の是非を問うたのだ。ソクラテスにもぞっこんした。パイドンは私の愛読書である。九鬼周造のいきの構造も私の愛読書であり実践するべき啓蒙書であった。三島由紀夫葉隠入門にも影響された。ここで思う、私はこれらの本を恥肉かしてはいるが言語化していないということに。すべての出来事を網羅して言語化すれば物書きとして一定の地位を占めることもできよう。しかし、かったるさもあるのは確かで、言葉にはならない感覚を比喩表現でというわけにはいかないような気がする。私も舌鋒鋭く忌憚なく文章を書きたいのだけれど必ず私の前に現れてくる顔がある。それは私の愛する彼女の顔である。彼女の顔を苦しめ歪めさせるような行為は僕はしないのだ。したくないという、欲求であったり誰からの強制でもない、自発的にしないのだ。これだけが僕の彼女に対する唯一の誠実さである。僕は彼女に暗黙のうちに様々な嘘をつくことは確かにあるけれども、僕が彼女に対して彼女が気にくわないにしても、誠実さのかけらも望んでいないにしても僕が彼女に誠実におちゃらけているのは、彼女を決して悲しませてはならないという強い動機からなのだ。私は自分が本当にそう思っているのだろうかという疑問を幼い頃から抱いて自分を欺くような真似をするのが大嫌いだった。それにより、嫌いなことは何もしないでここまで生きてきたのであるが、私は彼女のためであればすべての嫌いなことをレモンシロップに変えて実行する。こればかりは、僕のどうしようもない勝手な行為だ。僕は自分が嘘つきであるということを重々に承知している。金がないと言っては親にせびりカネを巻き上げる僕はろくな人間じゃないことはわかっている。それでもだ。それでも僕は彼女を悲しませない。そうしないようにする。