アウトプット

相手の視点に立ってみよう

自分とは何か

 自分とは何か。大きな川の流れにあって小さなことに動ぜず悠久の大河のような流れの中に身をおけば、漠然と広がる景色に孤独を苛まれ人を求め自らが船になってでもそのものの後を乗せて水面を揺蕩う。一体この世界に生まれてきて私は人の模倣以外の生き方をすることをなぜ嫌っているのだろうか。人が変わることが認められない時期がありそれで人は信用できないと私が考えるとき確かに人に大きく依存していたのは確かなことであろう。依存された方も頼り甲斐のある事故という自分によってはいるものの酔いが覚めれば息苦しさを感じないわけにはいかぬように、一時的には陶酔的に相手に酔えるが酔いが覚めたときに苦痛から解放される楽しみを獲得するのだろうか。となれば、私自身は酔いが覚めてふらりとどこか誰も知らない人のところへ行ってしまいかねない危険の中にあるのだ。それを何度続けても飽きない自分がいる。天性の浮気性であるのを認めざるおえないのかもしれない。人への執着も浮気性も発病すれば完治する。浮気性な事故が道を一つに求めるのは至難で、あらゆる書物から生き方の携帯を学びはするけれどもそれを真似することはない。真似することなければ学んだとは言えないので私は不学の徒と言わざるおえない。私がどこへ行くのかという疑問が私にとってさほど重要でないのも確かである。今この場所でいかに私は動けるのか、という詰問に日夜さらされ眠るときも奇妙な出来事の混交を見ながら眠りにつくのだ。一時期の灰色がかった暗い曇り空の夢はもう見なくなっている。これが良い兆候であるのかどうかは、それを判断するのは私自身であるのだが、どうも私は安定して入るけれども楽しさを失っていると思われるのだ。独りよがりの楽しさはなんら楽しいものではなく、私はこの時期に仕事をして家庭を持つために貯金をしなければならないという世間並みの考えが私の心に巣くって毎日の私の怠惰を戒め罰しているのだ。実に苦しい感覚なのだけれども一度狂って仕舞えばなんとも思わなくなるのだけれども、嬉しいという感情であったり悲しいという感情さえも失って、硬い甲羅の中に自己の感情を閉じ込め決して開けないように鍵をしっかり締めているのである。ここまで自己をコントロールできる自分を恨む。私は人の話を聞くのが下手というのもそういうことなのかもしれない。これは誰かに言われたことでもないのだが、自負心として、人の話を聞くのは上手だが、ものを書くのは恐ろしく下手なのだ。そこには、自らを一つの価値体系とする直覚がなければ書くものは実体を失い書き手の責任さえ免責される。この生活の楽しさは安定にあるのだし、二人会話をするのが楽しいのは確かなことではあるけれども。て意見を持たないような文章を書くにはどうすればいいのだろうか。私の頭の中に常にあるどうすればいいのかという問いは安易な回答と結びつきがちである。安易な回答には批判を加えるにしても疲れているときに安易な方へ流れてしまうのは仕方がないと考えるのは世人の余裕のない強いの人たちがよく言う言葉ではある。それにしても、私は何を書けば良いのだろう。書いても金にはならないし、自己を表すための手段として書いても表されることがないのは確かなのだから。自己を表す手段として文章を念頭に置き、しっかりと意見が言えるというのはおもえば学問する上で非常に邪魔な才能であるように思われる。言いたいことは散々言っているじゃないか。私が書いているのが私の言いたいことであってそれを超えることも不足することもないではないか。私は自らの手意見が非常に貧しいところに怒りを覚えておりもどかしさを感じているのだろう。いわば、私は言葉をうまく使えずに自己を表現できていないわけではなく、私は常に文章中に文章という形で表現されておりそれに満足していないだけだ。それを受け入れ自らの文章を改造し文体なる私にはまだ会得されず感得もされない、文章のスタイルなるものがいかなるものか悪戦苦闘しているのだ。私は不幸であるのか幸福であるのかと問う前に、不幸なるものも幸福なるものも味わう必要があるのだし、人に君は幸福だと何度言われても決して幸福にはならないだろう。早い話が、腐った卵を食べて他人に美味しい美味しいと囃し立てられてもまずいに決まっているのだ。いわば他人とは私にとってやかましい存在なのである。彼らはまず想像の余地を残しながら、それがしぼむのを極度に嫌う傾向がある。他人という存在は無言のうちに私が打ち立てる虚像に過ぎないのだ。虚像を知ることと自分を知ることはつながっておりひいては他者理解とは自己理解と同じことであるという簡明な結論に至る。