反応

何かを見て否応無しに反応して、その反応で私は神経をすり減らし続け性を感じるすべての人間はマゾヒズム的であると結論付けて仕舞えばもう世界について思案するすべての出来事から解放されるだろうか。ある結論に到達し世界の解釈をすべてそれに帰着させるよう当てはめて世界に法則性を見出そうとする無理をしなくちゃならないとすればいかにもこの世の中は生きずらかろうと思われるのである。一体全体消費のために人間は健康を向上させられているという状況において社会に反対すれば不健康となり私の生命は喧嘩の挙句に殺されて死体は誰からも思い起こされることなく空気の煙となって消え去るのであろう。私は自らの日を誰にとがめられるでもなく感じ、私からの自己攻撃になすすべなしと半場諦めかけ、社会の私をいじめる対象に私は乗り移って自らを現実的物理的に攻撃し続け痛め続け早く死ぬように仕向けている。誰が私の首の解釈人となってくれるのか探し続けるこの牢屋のような世界観年の中でその外にで多分私は連れ戻され、自由の空気を吸うことなく私は生き延びる。どうしても男は危険とスリルが必要であり汚いものでも厭うことなく愛することができるが、女は違うのだ。清潔であればクリーンな豚でも家の中で養っておけるという潔癖さの中にある。コンドームをしない私が咎められるのも当たり前で当然だという顔をして私は私の責任を笑いながら咎められる。笑いながら言葉もなく別に責任は取るといえば無責任と言葉は無限に帰ってくる。そのやりとり自体に何か一つの答えではない形があるのだろう。女にとって中身は決して必要でない。からっぽの男は想像力のある女に与えられた規律によりいくらでもロボットになり冒険を冒険と思わずにいとわず恐れに勝つことなく死の淵まで出かけて行っては飛び込み奇跡的に助かれば女も儲けものの涙を流し永遠の愛を垣間見た気がして夕日の中に明日の白けた朝の来ないのを祈る。電灯は消され夢の中で私は苦しみ悶え自らを危険にとするあらゆる手段を、頭の中でディスカッションするだけのことも一つの戒律を破るような思想であるとせずして、自ら制限を課した自由に私は安定しながらも不満足である。

 幸せであるとか幸福な話を聞いて幸福になれるときすでに話を聞く前から幸福であるに違いなく、私は人の話を聞いて元気付けられたことなどない。すべては私が私なりに理解したことを再度他人の口から確認するように言われたときに私は他者の言葉を受け入れ理解する。他者の沈黙のうちに私の自信は熟成され育てられ天衣無縫の軽さで雲の中に隠れて行ってしまった。今頃太陽に温められ夢見心地にのうのうと漂っているのか、雲のうえに。天才性を疑わないのが私の人生であろう。交渉の中で私が感じるのは、交渉や関係を行おうとすればするほど孤独に陥っていく運命にある性の存在の確かさである。

 私の天才と孤独性と判断力をもってすれば己に何が不足があろう。世の人を、どうして私と比べ、私が働きもせず金が入ってくる私の身の上を卑屈にもなって痛めつけなくてはいけないのだろうか。私はその代わりに十分苦しんでいるにもかかわらず。周囲から見ればただの間抜けの怠慢野郎にしか見えないところに怒りを感じているのだ。諦めもまた感じているのあろう。私は故郷に帰っても何もない。両親にすべての責任を帰するのも考えてもそれが有効であるかどうかというよりもまた、倫理的観点や倫理感覚からでもなくすべての意見臆見正当な自己主張をぶち壊した先にある私ではない世界を見てみたいのだ。私は偏見の塊である、その偏見をいかに壊すのかが私に運命付けられたすべてなのであろうか。

 うんめいはわたしがうごかせないものとていぎするときにわたしはうんめいについてかたるいっさいのことばはしらじらしくみのうえにおこったふこうはうんめいのごみばこにいれてわすれさるほかにうんめいのつかいみちなどないときめかかってはよのひとのこころのしょうあくさのしれるはみずからのしょうあくさとのきょうめいのうちにみいだされるのだとはんばそうおもっているわたしにいまのじせいはいかにもふゆかいでいきづらさをかんじないわけにはいかないけれどもわたしはくるってくるっていかにもくるってしまえばこっちのものだとかんがえてみてはどうかとみずからにかたりかけるもがんらいのがんめいなるみみはこまくのやぶれたろうあのようにこちらをみむきもしない。

 ニュースに反応しないよ私がいかにもニュースに憎悪を持って返すとき、ニュースのやつはまんまと我々を取り込んで笑ってやがるんだ。マスコミなんてものを趣味も感性も腐った下劣な国民のために用意された白痴のための栄養剤であると蹴り飛ばし、あの世に天国を想定するよりもスカトロ三昧の糞尿ぶちまけ装置を家庭に一台おくことで色彩豊かにゲロの色は艶やかに豊かに、緩やかに気色の悪いアナウンサーの脱糞した話し方と殺人事件、強盗、政治家のゴルフの話で安保条約が変わって欲しいとでも言いたげなアル中おじさんの足の臭い水虫のような与太話を腐ったマンコ臭が臭気を漂わせながら、四角いカメラの先に待ち構える汗臭い男どもに画面を通じて自慰を催させる電波の形成する嗅覚の想像力に視聴率という冠をかぶせ、ゲロまみれのシートを鼻をつんむこともできず、両手両足縛られ、いいだとか悪いだとか判断させられる地獄を見ては、ちゃらけた音楽と能天気な効果音に不細工なアイドルと真面目で退屈なイケメンを配置して、一体テレビなんてものが普及して人間の想像力も型にはまってしまっているのだから見せ方を変えればいいものを、老人たちに合わせて低俗な番組を作っては流して一喜一憂している。若者こそテレビなぞ見てはいけないし、ネットで検索してすぐに答えをだと思われるものを探し出しよをわかったふりをしてはいけないのだ。私は身をもって思うのだが、知らない方がよほど賢い出来事があるのだこの世の中に。なぜこれだけ世界が労働の苦痛に満ちているのかといえば、労働する人間の適性に合っていないからであろう。