おしゃべりは禁物である。尖った神経に言葉はズキズキと突き刺さる。早口で喋るのは自分で言葉の衝突を経験しているからだ。言葉を衝突させて破片を相手に突き刺す。言葉を駆使すれば相手を黙らせることができ、否、相手の話を聞かないで済む。喋れば喋るほどに相手の話を聞かずに自らの言葉が自らの耳に届き一体自らもそれを手にして吐き出し見てみなくては言葉の威力がわからないのだろう。私が何か不快を感じた時は必ず言葉が紡ぎ出されてくるように私には思われる。自らを愚弄する言葉をいくら履いても誰も褒めてくれはしない。自らを愚弄するのが好きな人がいる。好きでやっているわけじゃなくて何か反省文めいたことを書かなければ気が済まない人がいる。それならばやらなくちゃ良かったのだ。想像力の欠如と言いましょうか。やってしまわないとわからないと申す。それはそれでその人の生き方だ。人を殺してみないと・・・とはならない。やはり教育がいるということになるが、ある程度わからないこともある。そもそもわからないという事態がわからない。人を殺しちゃいけないというが、それは、殺された人がやめてくれと言っている時はまだ傷害罪なのだと法律論っぽく歪めてみても言葉が増えるだけだ。唯一自分を基準にしなくちゃならない。自分がされて嫌なことを相手にしちゃいけない。これほど難しいことがあろうか。自らを知れというのだ。他人の悪口を言えば他人に悪口を言われるように。それがわかるかわからぬか、自己懲罰的な若者は平気で他人の悪口を言う。これほど歪んだ人間もいないだろうが、社会は歪んだ人間の宝庫だ。誰もが成熟してから社会に出るわけではない。そもそも社会など存在しない。自らが強固に信じているある現象である他ない。それは集団的に継承されている。問題ではない。ただ、虚構である社会を、集団の外部を考えないのが問題であるように思われる。ある価値観を守ると言ってもその価値観を守ると考えた時に外部が意識化されている。要は、外部への反応をあらかじめ決めておくというのが価値観を守るという行為だ。価値観が侵された場合、それを変更することなく何らかの形で守るというのが価値観を守るという行為だであるし、その宣言が価値観を守るということだ。現に言葉にすればその外部が面前に現れてくる。思想家は、そのうぬぼれに実態を与えるためにすべての人たちにわかるような言葉を投げかけなくてはならない。批判は、ある意味でわかる人にはわかるがわからぬ人にはわからないために読まれる範囲は狭まるけれども。私は小林秀雄を念頭に置いている。彼は神秘主義的だとか言っても始まらない。彼の彼自身を通して得た感覚を筆に宿す技術は素晴らしいと言ってみたところで誰も小林を読まないと食ってかかる自分は一体、小林秀雄を宣伝したいのだろうか。そうではないはずである。思考の糧にして自らに降ってかかる泥を落としたいと考えているのだ。少しおかしいと思う時にそれをそのままおかしい風に受け取るのがマナーであるように思われる。お菓子をくれたというので、それを洗ってしまえば相手も嫌な気になる。問題はわかっていて嫌なことをする人間がいるということだ。それがこの世の中を生きづらくしているように思われる。私恨は捨て去るに越したことはない。何を大事にする必要があるか知れない。私が三島由紀夫を好きになったのは、彼のスタンスであり彼の全てである。彼の意味する周辺ではないのだ。私は何ら社会変革など信じちゃいない。戦争が終わっても拒否反応が強く出るのは自明ではないか。社会が変わっては困る。社会と呼ばれているものが何かを示せばいい。社訓だろうか、社会人という言葉だろうか、メディアだろうか、私はせめて借り物の言葉を返す必要があるのかもしれない。私が言葉をどう扱っているのかを説明しなくちゃならない。そうでなくては言葉は伝えられない。確かにお金が入れば人は豊かになるかもしれない。お金は価値あるものを手元に所有する喜びをあたえてくれる。所有すれば世話をしなくちゃならない。それにまた金がかかる。金はいろいろ世話をやかせてくれる。何たって、金のために自ら何時間も拘束されているのだから当たり前のことだ。私はぶっ飛んだほうがいいのだろう。贅沢は、それを毎日しないから贅沢なのであって、ジェームズ1世が毎晩国産黒毛和牛を食べていても贅沢とは呼べないであろう。言って仕舞えば、金は鏡であるように思われる。何に使うのか。それが大事なのであろう。しかし、ある意味で使わなくてはその価値の底をしれないというものでもある。使ってみなくてはわからない。そこに金は魔力を占めているのであろう。ゆっくりバイクに乗るにしても、バイクで飛ばすにしても、どちらにせよ、バイクに乗っているのには変わりないのだから。一体全体金もないのに楽しく過ごせている人間がいれば、社会においてある偏見の下に見られてもおかしくないのである。ある一定の価値観を持ったどうせだとやらとつるむ時間があれば、別の世代とつるめば金などそうそうなくても生きていけるのである。世代を保存するのに金を使わされているのに気がつかないのであろうか。世代間の争いのほうが私は身に迫って感じているのではないかと思われる。それを国家間の戦争に転嫁すれば実は戦いは遠のくのではないだろうか。国家が世代を超えて一つになる。テレビで聞くフレーズだが、どの世代にも通用する価値観は敵国を憎しと思う心であろう。それも細分化すれば、敵国が憎い自国の敵を殺すとなれば敵の敵は味方というのだろうか。敵の敵は味方であるならば、アメリカ嫌いの北朝鮮民族派の友達であろうと考えるのが論理であるとすれば、なんとも狭い思考で物事を感じている自らの器を見つめ返すが良い。決して卑屈にならなくても良い、なったとしてもそれを笑い飛ばす力があればいいのだ。ゆーもを忘れずに文章を書かなくてはマジになっては何でもおしまいだ