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私への回帰

 偏見とは言葉に満ちている力の放出に違いない。ある言葉の持つ意味が力を失った時言葉は我々の気持ちを代弁などしていないのに気づく。気持ちなどそもそも言葉が作り出すとすれば、言葉に何を求めよう。何を。一体何を。何も必要ないではないか。一人での対話など意味があろうか。意味があろうともそれには他者が必ず関与せねばならない。私的言語を公的に認めさせる試みの全てを私は拒否する。ある言葉を言えることである種の地位を確保できるのわかる。しかし本心ではない。本心は揺れ動くものだからだ。嘘ばかり吐き続けると言っても過言ではない。もしくは本人の歩みは別に作り出し本心はそこにはけ口を求めると言ってもいいだろう。世界と対話する気など毛頭ないのだ。世界が何を言おうと私は世界の中において存在を見出そうとも思わない。いわば幽霊で痛いのかもしれない。物質に左右されずに精神の自由な活動が行われれば結構である。私たちは一つの型にはまるように強制される。そうでなければならない理由は金銭である。キャラクターとは型の制度への皮肉。言葉は本心を離れ、力を失い、嘘をつき続ける。嘘つきは嘘つきに騙され嘘を守るであろう。私はどこにいるのか。私とは客観性を失った偏見と狂気と自由を失った主体であろう。自由であるほどに私は何者でもなくなるのだから。個体として、苛立ちも空腹も地位も名誉もなくなれば、それに越したことはない。しかし、他者がいる。相変わらずそれらを相手に本気なれる。否、同じことばかり繰り返す暇人。農作業従事者。彼らには文字など不要だったのだ。教えなど説教など何も必要としていないのだ。ただ、付き合っているだけにすぎなかった。文字に囚われた私は彼らからしてみればバカである。否、私は自らバカだと思う。その良し悪しはバカのもたらす効用にて自ら判断するように思われる。限界まで進んだ時に、私が死にたいと思った時に、最高に人間は生きているのだ。そして人間は生きてしまえば直ぐに死にたくなるものだ。生きようとも死のうともせずに、一切が過ぎていき世界は虚無に満ちた時に意味をなすのは暴力であろう。