アウトプット

相手の視点に立ってみよう

対話

 対話とは相手の話を聞くことであろうし相手が話すわけをも含めて相手への心理的解消をもたらす。相手の話を聞くのが対話であり、何を言うのかを楽しむのはおしゃべりであろう。対話とは名ばかりのおしゃべりが作り出した世界であるからこの世の中は決して深刻な問題などないのだ。おしゃべりの中に少し気の利いたのもあればそうでないのもあるだけの話だろう。それにしてもおしゃべりが過ぎてしまったようだ。私は別におしゃべりを楽しもうという気はないのだ。おしゃべりこそが社会であるように思われる。お笑いにしてもある一つの常識を基盤にしなければ面白くないのだから。人はおおかたにして苦労して痛めつけられなくては面白いという感情さえなくなってしまうのかもしれない。とすれば、あらゆる楽も苦の生んだものと言えようし、苦しみは楽しみが生んだのであろう。どちらが先に生まれたのかを論じたとして何になろうというのか、意識は断絶されるのだから、人が生まれ持っていい人間だと信じたいのはなぜだろうかと考えてみようともしない。それは考えちゃいけない種類のことなのだ。不自由がいっぱいこの世界にあるのは確かだけれどもそれを忘れちゃいけなのだろう。

 言葉を生業にしている人間は言葉で遊び始める。小林秀雄は開き直った。嘘をついて何が悪いと。否、違うかもしれない、私の中の小林秀雄がそう言ったのだ。それにしても、人物の研究などわけがわからない。会ったこともない人間について思いを巡らす必要があろうかというわけだ。それよりも今目の前の、否、この私の目が狂っていないのかという問いがあるだろう。今からは、人物よりもディスクールの研究に重きをおくのが正解であろう。人物を研究して何になるというけれども、それを欲している人もいるのだからなんとも言えない。

 私は知った風をしているが何も知らない。ある到着点においてスタンプを押さなくちゃならない世界においてスタンプなど押すのに楽しみを見出せない私であるだけである。それによる弊害など存在しないのもまた事実かもしれない。なぜならば、それに付随するあらゆる景品もゴミでしかなる。私には宝物持ちぐされなるものに溢れている。人にたくさん迷惑をかけて死んだ人間が後世に語り継がれ英雄にもなり、思い出の人となるのであるのならば、迷惑などかけっぱなしの人間ってのは一体迷惑が意味するところの社会的価値観なりを身を以て逆説的に体現しているわけであるから、貴重な存在なのであろう。