人生が終わる日

やめっちまえよ、くだらねえ。女がどうだ、親がどうだ。そいつらの気にしてたら俺は死んじゃうね。あー死にたくなっちゃうね。俺は女のために生きてんじゃない。まして、親のためにいきてるんでもないんだな。近頃はうるせーよ。自分の姪ができたら他人に自慢だ。自慢する材料ばっかり探して、自分は本一冊読まずバカになっていくのがわからんのだから。言わせてもらうよ、バカだよ俺なんて存在は。親からカネをもらうのは一流に罪悪感のいることなんだよ。不具者と同じだよ。働いてる不具者以下の存在なんだな。そう社会が声がけしてくるのがわかる。社会のスローガンが国民総生産のためにあるなんて考えてるからな。いったいなんで他人の飯作ってそれが金になるんだよ。飯ぐらい自分で作りやがれってんだ。美味しい飯が作れるんなら、振る舞えばいいじゃねーか。それを金にして儲けようなんて魂胆が卑しいね。周囲を見渡せば卑しいやつらばっかりだよ。黄金稼いでクソまずい酒飲んで次の日に気分悪くしてまた働いて。反吐を出すために苦しんでる。どうしようもないよ。一方でカネをためて将来の不安のための貯蓄が鬱憤した無意識の引き出しから出て行くってこともあり得るんだね。ああ、世の中が嫌になったなんて俺は言いたくないけど、今俺の頭に浮かんでるのは世の中が嫌だってことだ。なんでかって。俺が思っていた世界と違うからだ。邪道俺は世界を見ていたんだ。おそらく今と変わらない。小さい頃から今になるまで、俺は世界を同じ風に見てきた。じゃなんだって嫌なんだ。小さい頃に死にたくならなかったのか。それは俺が変われたからだろう。大人になりゃ経済がのしかかって変わる機会を剥奪されるんだ。男女差別も年齢差別もあるんだ。それを嘆いたってアホらしい。道はあるんだから。独学だよ。独学ってのは自分で自分の疑問に答えるってことだ。この意見は本居宣長を書いた小林秀雄の公演からパクってきたもんだから、偉そうに言えないけど、疑問を持つってことだよ。発見なんてものはないんだ。人間を分裂的に見ちゃいけないんだ。わかるか?僕は以前と違って、随分複雑になった。複雑ゆえに私は分裂すると書くのは容易だ。分裂するって意識が分裂するのかい。それならば文章なんて誰にも解読できない。自分さえも後で読み返してみて分裂しているゆえにわからない。文章は事実を書き留めるメモである。事実が何か?自分の心に思い浮かん多ことだろうが、それを書きとめて半数もせずただ移ろう心を描いていけば何か一つのまとまりが見えてくると信じるところに文章の信ずる所以があるが、私は文章について従来言葉の次に来るメモ程度のもの、思い出すのに必要なキーワードの書かれた記憶を托する場所であると考えるのだが、記憶は文章の形で思い出される。一定の記憶を一定の感情を伴って思い出すのが文章だ。文章は変わらないが解釈によって変わりうる。解釈は、私の頭に起こる。それをまた文章にしてどこへ行き着くのかわからない。目的地を持った文章がない。私はいったいこれが金になるから書いているわけでもないので目的はないのだ。ある程度小説かなり新聞記事を描く身になれば、書く文章に規範も出てくるだろうが、そう規範にとらわれても面白くないだろう。書いていて面白くないような話は、書かないほうがいい。私は書くことの意味について少し今わかりかけているような気がする。書くとは、つまり、自分が言いたいことを書くということだ。そこに何かしら、利益だとか目的を持たない文章こそ私が書きたい文章なのだ。私の独り言を聞いてくれる人はいないのだからここに私は書くのだ。ラカンは、自慢話で第三者の存在を認めるが、私は知識のひけらかしをしたいのではなく私の中に知識とやらがどうまとまってきているのかを知るために書いているのだ。記憶の定着で同じことを何度も繰り返していれば、私はそこに何かしらの目的なり意志があるのだろうと感じてしまう。すべての目的を金銭に置き換えて解釈するのは容易な手段であるが故の誘惑である。私はいったいこれからどこへ漂流していくのだろうと思ってもいない、けれども、そういう可能性がない今の状況において人間は不安から行動を起こし不安と同居するがために秩序を維持する本能を見出すのだろうと考える。

人に好かれようとする努力はすべて、無意味だ。人生に何ももたらさない。嫌われるくらいの勇気を持て。嫌われて傷ついてそれで笑えばいいのだ。決して人に好かれるような人間にはなるな。人に嫌われるようになったらしめたもんだ。一番は人なんて気にしないことだ。自分は自分である。