分析の目的

 分析の目的は自分を相対化することだ。世の中に違う人がいて、私の価値観と全く違う人間もいる。私は何も好きじゃないから、誰も嫌いになれない。好きな食べ物がないから、嫌いな食べ物もない。なんでも、パクパクと平らげてしまう。好き嫌いがないというから、この世の中は生きづらい。世間を秩序付けるのはおそらく、暴力と醜聞であろう。刑法は世間を形成している。法律がなければ人々の心は安定しないだろう。はつらつとして隣で血を吐いた人間が死んでいるかもしれない。死ぬのが怖いか?死が怖いか。無視の亡霊に取り憑かれるよりも、私は死を選ぶであろう。どこかで見た他人の笑顔があまりにも他人行儀とイライラするのだ。イライラとはつまり、言葉にならない感情の発露であろう。なぜ、言葉にしないのか、できないのか。ある認識を予感はしているが意識の下に持って来たくないのである。なぜならば、そうしなくちゃ今の生活なる秩序が崩れてしまうから。つまりは、追求よりも安定を人はもとめる。一攫千金の島を目指して外に出るのは少数であろう。嘘でもまやかしでも浮気でも痴漢でもいいから、この世にとどまって、同じような趣味を持った人間たちのアホを見る目にさらされていたほうがいいのだ。私は人間に期待しない人間が嫌いだ。彼女らは人をコントロールしているつもりでいるのだろうか、飼い慣らされない自分の魂をうまくコントロールしているだけであり、全く制圧していないのだ。魂の解放とは、つまりは何を意味する。私は、私を殺したいと考える。西洋風に自分の意見を言うのも難しいことではない。日本人であればなおさら簡単である。ただ、西洋の真似をしようとしている人間のみ何も意見が言えないのである。彼らのは意見ではなく、どこかで記憶してなんとなく放り投げて頭の片隅にあった資料でしかない。考えられてもいない資料を渡されてこれが意見だという。そうか、これが君がどこからか持って来てコピーアンドペースとした意見なんだ、なるほど・・・。

 

戯れもほどほどにしよう。近頃かけない。書けないのはつまり精神衛生上素晴らしいことなのかもしれない。自分の気持ちを表に出す努力をしようという気力が萎えているのだろうから、別のことで疲れ果ててもいるのだろう。挑戦なくして意見は決してない。意見は彼らを拘泥させる。人を動かすのは意見ではないのを知っているのにそれを認めない。人を動かさないことに決めた。学問は自分のためにするものだ。労働は?他人のためにすることだ。だから尊い、という言葉をもたせてやり慰安してやらねばならない。全くもって、言葉の政治学であろう。言葉は決してそのような利用法に、世間の好き勝手のポピュリズムを嫌悪しているであろう。私もまた、言葉を救いたい。