アウトプット

相手の視点に立ってみよう

ぼく

 碌に勉強できなかった。レポートも書けていない。理想の半分は達成したかな。まあ、それでいいか。あとは野となれ山となれ。

 今の僕はおかしいと思う。記憶はすぐなくすし、余裕がない。焦りばかりで美味しいご飯も台無しになる。漠然とした未来への恐怖がある。それを楽しめればいいのだが。男はスリルを好むと誰かが言った。女はそれをバカだと戒める。さて、男はどう出る。女に好かれたいから、平穏な生活で認知症になるか。そして、女に捨てられるか。それとも、文句を言われながらやりたいことをやって、賭けに出るのか。つまり、私の言うことを聞かないのねと言いながら、去っていくのか行かないのかのスリルを楽しむというのか。スリルはどこにある。ヨドバシカメラにはない。安心した生活にはない。僕の悪いのは、どうも鬱っぽいところである。自分を責めるのだ。自分を追い込んでうつ病になって死んでしまえと、思うのだ。死ぬことに関して、私は臆病ではないと思う。いつだって、今この瞬間に消え去っても構わないとさえ思っている。つまりは、生に執着がないともいえるが、生から見放されてるとも取れる。生活に誘惑がないのだ。未来は暗い。期待できない。そういった強い漠然とした思いが、私の思考と共によく現れるようになった。私は私について何も知らない。寿司の値段は高かったように思われる。もっと安い店はいくつもあったのに、私は値段でご飯を選ぶようになってしまっているのだ。なぜならば、ストレスのため味がわからなくなっているからだ。そして、焦りばかりなのでゆっくりご飯を食べることもない。愛を受け取ることもない。私は今少し疲れている。明日のテストがあることさえわからない。だから、行かないでもいいのだ。なぜならば、私は本当にダメ人間で講義も碌に出ていないから本を読まなくちゃならないからなのだ。しかし、それに理由をつけて解決しようなんて思いたくない。私の生活は相当に破綻している。もうダメかもしれないと思っても、死にはしない。ただ、前頭葉が萎縮して血流の流れが極端に悪くなっているなと感じるばかりである。どうして、人間は自分の心の余裕を忘れてしまうのか。生きるために死んだような生活を送っているように見えるのはなぜだろうか。現代は人付き合いを嫌う。なぜなら、自分だけの世界に閉じこもっていたいからだ。人の話を聞かない狭い心を持った人が増えた。そう、私は私の話を聞いてもらいたいのだ。それならばカウンセリングへ行けと言うだろう。そんな金は使いたくないからつらつらブログに言葉を書き連ねて誰も読みもしない愚痴をただ書きまくっているのだ。日記こそ、私の人生だ。私の人生は日記に書くために存在している。つまり、人生は人生のために存在しちゃいない。ジョンレノンが「人生を忘れたとき、君は本当に人生を歩んでいるんだよ」といった。彼の曲がそうであろう。人生について考えるとき、私たちは人生を遠巻きに見ている。有る事無い事吹聴して人生について言葉を費やしている。ああ、私はどうして・・・嘆きたい。存在について。そして、金遣いの荒さについて。ケチであるのは美徳だ。今の私にとって。それは、金以外の価値を見つける手段になりうるからだ。たまに、死にたくなる。死ぬんだと思えば、何も怖くない。同時に、何も感動しなくなる。バカみたいに笑って、バカみたいに生きていればもっと楽しい人生があったのかもしれない。私にとって楽しいのは、美味しい料理を食べることよりも本を読むことにあるのだろう。私はそうでもしなくちゃ何が楽しいのかわからないのだ。つまり私はバカなのだ。一人で本を読むことなしに何も物を考えられないのだから。それはしかし、物を考えるのに自分を過信していない証拠でもあるのだ。それをここに書いたからといって何になる。

 

 鉛色の空を西日が彩る

 やがて、黒が空を覆い、明るい光が道を照らす

 同級生たちは、他人となった

 親も、他人となった

 さて、私は一体他人をこれ以上増やすのだろうか