アウトプット

相手の視点に立ってみよう

なんだかんだ楽しかった

 書くという行為には、多分に嘘が書かれてある。自分の頭の中の状態を整理整頓するのに書く行為は良いだろう。しかし、良いという観念をどうすれば感じられるのかが疑問である。ある一つの結論に導かれるのは、どこか無理があるに違いない。例えば、人は考えて行動しているとされるが全く違って行動して考えているのだ。頭の中で何を書こうかと考えているときに紙にペンで文字を書き連ねているのだ。私はよく人の話を文字にしようと努力している。講義でも、相手の話しているのを口述筆記するのが習わしだ。それのどこが楽しいのかと言われても、楽しくてしょうがないのだ。自分を忘れられる感覚は実に、素晴らしいの一言。一つ言えるのは、ネットの記事の悪文だけは読みたくないということ。情報の断片ばかりを寄せ集めて、それが本物であるのか偽物であるのか審議することもなくただ、情報を無条件に真実だと受け取り、または無条件に嘘だと偽って、好きなように取捨選択し、アホみたいに判断力を喪失させるには、情報化社会はあまりにも素晴らしいと思われる。どこのお店が美味しいのか美味しくないのか。それは、君の舌が決めることだ。短時間で大量の情報を頭に仕入れて、休憩中もせわしなく頭を錯乱させなくちゃ暇を持て余す感覚を忘れているのではないだろうか。私はあくまでも、いろんな人が倫理だとか、意見だとかを捨てて相手の自由だから口を出さずとしているスタンスに違和感を感じている。相手に交わる気持ちが全くないのだ。自我にしがみ付いている。それは、不自由だ。風通しの悪い物置にずっと住んでいるようだ。物置といえば、ある芸人が貧乏時代親子3人で物置に住んでいた話を聞いた。排泄物はたらいにして、生ゴミにして捨てていたようだ。そんな話をテレビで聞いて、何になる。やたらに、違和感のある情報ばかりを集める行為はアホだ。全く、聞く耳を持たない私のような人間が何をかけるだろうかと思う。私がいろいろ書いて、誰からも何も言われないようになって仕舞えば、私が書く理由はないのだろうか。そうではない。私はあくまでも、私のために書いているのだ。しかし、自分のためにする行動は弱い。長続きは決してしまい。つまりは、一人では何もできないとする結論に至るのが定石だ。そうやって、自分の可能性を他人のせいにするのは人間のよくある傾向であるから、自然にそれをやってのける人間は常識人である。つまりは、常識人は不自由であり、自由を獲得するやる気を失った出来損ないとしてもいいだろう。私はそう思っているのだけれども、ここで賛同者を集めてもしょうがない。近頃は意見が多様化して、決着をつけるのもやめにして、討論番組も、ただの揚げ足取りと、取材不足からくる妄想、そして、語感を失った人間の叫び声にしか聞こえなくなってしまった。現代人は文字を失い、動画や画像でものを理解できると信じている。しかし、誰かに即興である事実を伝える際に、口ほど早いものはないのである。口から出てくるのは色付きの写真でも、動く絵でもない。言葉である。言葉は、その脆弱性に相手の想像力をかきたてる。なぜ、想像力を養えと言われるのか、想像力が重宝されるのか。それは、想像力は人間を恐怖に貶めもするし、相手を喜ばせる無から有を生み出し自他共に気持ちいい感覚を与えるからである。言葉のふとした間違いから生まれる奇妙な出来事さえ面白いのだ。画像や、動画は相手に一定の事実を与える。そこに解釈の余地はあるだろう。しかし、映像に問うても何も返ってこない。もう一度みろと言わんばかりに、再生するだけだ。つまり、映像は人間の想像力をかきたてない。ただ、リアルに近い模擬体験を人間に与える。それは感覚を伴わない。映像の氾濫は語感を喪失させるかもしれない。ある種の、語感喪失により救われる人間もいるのは確かだろうと思われる。なぜならば、言葉に苦しめられ束縛される人間も必ずいるからだ。しかし、そういった人間こそどこか親しみを覚えるのもまた確かなことだ。言葉がその人の中で生きているからだ。それで死んでしまったとしても、その人間は何かを大事に育てていたのだろうと思われる。それは、私が大事にしたいものだ。だから、三島由紀夫の死は衝撃であるのだ。三島の死は、言葉の語感を失い歴史を忘れ今さえすぐに忘却される現代において、時空を超えた文字のもたらす至福の火が消えるのを嘆くものに衝撃的なのだ。

 そう、私は描けばいいと思っている。一言一句、噛みしめることをしない。なぜなら、歯がないからだ。虫歯になり、何もかめないのだ。ただ、飲み込むだけ。味なんてわかりゃしない。生きるために、ただ飲み込むだけ。文字がそうであるなら、私は文字を食べちゃいない。飲み込むだけ。あるのは、喉を通る感覚。だから、書きまくる。言葉に何の意味も持たせず。