アウトプット

相手の視点に立ってみよう

現代について

 人目をひくようなタイトルにはよく見ますが、あまりまともにかけているとは思えません。何年か経てば、色あせるような意見ばかりです。話題も、そうです。今はインターネットですぐに10年前の世の中の反応なんかを調べることができますが、わざわざそんなことを人間はしません。今ある対象について何か述べてそれを公の記事かなんかにするほうがよほど楽しいでしょうから。面倒なことは、他の人に任せて自分は取材して人間から得た情報で世の中を語るのです。ときに、それは間違ってもいません。しかし、間接的な情報であるのですから、その情報は私たちを欺くために流されているデマの可能性だってありうるわけです。例えば、覚せい剤を打たれて意識が混沌としているときに、警察官がやってきて、それがゾンビに見えたから逃げるといったように、デマは、デマを流した人間の思うように情報に反応する人間に対して非常優しいのです。それが、世間です。学歴が良ければいい会社に入れる。いい会社ってのは、そこで働いている人間にとって快適であるだけであって、その下請け業関係者の努力なりがあってなりたっているわけですから、だれしもいいところに入りたいと、トイレの掃除なんかしたくないと思っているわけであります。そして、そのような仕事をする人間を無視するのです。なんと悲しい話でしょう。私は今でも忘れないのが、道路の交通を仕切っているおじさんの肌の黒さからかその苦労を思いそのような仕事にはつくなよと言ったある人の言葉です。職業により人間を差別するのはよくありません。自らに偏見があるのを知らないで生きるのほど苦しいことはありませんから。今の時代、本当に偏屈です。過ごしにくくなりました。少し前の記事に、韓国の結婚式で友達をお金で雇うという記事が流行り、私たちはびっくりしましたが、もはや、遊び友達をレンタルできる時代です。要するに、文化は均質化しているのです。もう、外国なんんてどこにもないのかもしれません。とにかく、アメリカ、欧米、並びに韓国とは同質化しているように思われます。私にとって面白いのは、断然東南アジア並びに南アジアです。景色から何から違います。文化も文字も違います。タイ語は非常に難しい言語を持っています。私はタイ語の文字の区別がつきませんから。分からないことに首をつっこむのが私の生来備わった厄介な性格です。わかっているようなことが、その分あるのかもしれません。私は、わかっているようなことを分からないと言ったほうがよっぽどマシなように思われるのです。何が良くて何が悪いのか私にはわかりません。では、人殺しは悪いのか悪くないのかという質問がありますが、例えば、それが北朝鮮の装飾であれば、英雄になるのではないでしょうか。もちろん、その後戦争に突入すれば余計なことをしやがったとなるのでしょうが。しかし、目立ちもせずのろのろ歩いている人を殺すのはどうでしょう。これは、殺されて悲しむ人がいるからダメです。しかし、金正恩が殺されたら悲しむ人もいるでしょう。悲しむ人を基準にはできません。要するに、善悪の判断で人間は動いていないということです。あれが良いとか悪いとか、後からのこじつけ次第です。もし、あなたが素晴らしい作家であれば過去の思い出も全て楽しいものにできるはずです。記憶は何度でも再編集されるのですから。記憶はいつも、編集されるのを待っているのです。なぜでしょうか。思い出す必要があるからです。その必要性は誰の要請によるものでしょうか。多くは自分の欲望を減退させること、そして少しの自慢話でありましょう。人は自慢したがるものです。相手の話を自慢と捉えれば不愉快が残ります。相手より自慢することが多ければ鷹揚に構えて相手の話を聞くこともできます。そのくらい人間は自分に気を使って生きているわけです。そうでなくちゃ、とてもじゃないが、怒鳴らずにはいられないでしょう。冷静に物事を見るのは本当に大変な作業です。