アウトプット

相手の視点に立ってみよう

楽しいことと好きなことは違う

 俺には好きなことはない。可愛いはある。美しいもある。しかし、好きなことはない。対象を好きになるなんてことは一つもない。好きっていうのは、苦しい気持ちじゃないか。手に入らない、うまくいかない、そんなことを好きだというのだ。安室奈美恵が好きだというとき、尊敬があるだろ。前提として、尊敬してすがらなければならぬほど切羽詰まった状態であるわけだ。好きってのがどうもよくわからない。何をしたら楽しいのかの方がよほど具体的になりうる。しかし、もっと「好き」の正体を探っていきたい。

 女が好きだ。それは宗教だ。どんな痛い目にあっても女が好きなのだ。自分を好きじゃないのは、女が好きだからである。いろんな人を好きなっても構わない。外からわからないじゃないか。好きってのは、差別であろう。ある人が好きで優先する気持ちだ。好きだから何よりも優先されるのだ。なんと酷いことだろう。「好きなこと」のためならなんでもするのが「好き」っていうことだ。好きだけど我慢しようという時、魔の手から逃れる第一歩である。

 「好き」は必ず、嫌いに転じるか色あせて忘れられる。何かを好きになれば、きっとその好きというのは変化していく。徐々に好きではないのに、そこに賭けた時間、お金、情熱、本意、気持ち、つまり自分を自分らしく見せてくれる鏡にすがる。好きなことは減らしていくがいい。

 「好き」とは、まったくもって厄介者だ。何かを好きになり裏切られるまで好きでいるのだ。つまり、好きとは対象の破壊と自己像の破壊を内包する。もはや、嫌いではないか。それは「嫌い」じゃないか。嫌いとは、好きの色あせた姿だ。その鏡に映るのは自分ではない。嫌いな人だったり、嫌な思い出だ。だから、嫌いなのだ。好きは嫌いに転じる。

 「楽しい」は血流の流れである。散歩して見つけた花を美しいと思う。楽しいじゃないか。水泳をして疲れた体も気持ちがいい。そして、ぐっすり眠ってしまう。気持ちいじゃないか。楽しいとは気持ちがいい。好きなことは必ずしも気持ちがいいものではない。バイクが好きだが、バイクが好きとはつまり意味不明なのだ。好きなら買えばいいじゃないか。でも、お金がないから買えない。つまり、お金の使い道が「好き」なのかもしれない。時間、お金、体力、情熱、気持ち。それらを賭ける対象に「好き」が選択肢としてあるのだろう。「楽しい」もお金で買える。水泳もお金がなければできない。しかし、楽しいは代用できる。クルマが「好き」な奴に、自転車をやってもしょうがないだろう。

 「楽しい」は個人的なことだ。お金がなくても楽しく過ごせる。しかし、お金がある楽しみを知った時に貧乏を恨む。つまり、苦しみを経て初めて得られる楽しみがある。好きなものを手に入れた時に初めて人間は、好きでなくなる。手に入れてどう楽しむのか。それが、「好き」と「楽しみ」が手を組む時であろう。厳密に分けられる抽象的な言葉は存在しない。

 楽しいは、相対的で。いっぱいの徳利で幸せになる奴もいれば、ビールを浴びるように飲まなくちゃ楽しくならない人間もいる。

 では、「嬉しい」とはなんだろう。男はこう言った、嬉しい悲しい楽しい好き嫌いを言わない。それで、なんとか日常を幻想の中に楽しんでいるのだ。女は別だ。現実的な楽しい嬉しい好き嫌いを生きている。仮面を脱ぎ去った女は、意味不明だ。意味もないし秩序もない。まるで欲望の塊だ。それを恥ともしない。果ては、子供を養うためだというのだ。そういう理由づけが常習化している社会である。女は優しく、男は強く。つまり、本来は女は不寛容の身勝手で、男はめっぽう不安と焦燥感を紛らわせるために酒を飲み、間接的に強さを誇示するためにもろもろの物を所有したりするのだ。女は、全く経済に疎いと言っても他ならない。金で社会の力学が作動する時、初めて女が社会に強さを持って登場できる。肉体的に男性より劣る女性が、同じ労働環境を強いられるのは酷である。だから、最近はジムに通い女性も体力をつけようとしている。男に近づこうとしている。やはり、男についてくるのが女なのだろう。

 僕は、花を愛でてお茶を飲み読書にひたる女性が好きだ。ジムに通い、筋肉をつけ、飯を平らげ、元気に振る舞う女性をみると、そんな女もレディーファーストで扱わなければならないのか呆れる。筋肉をつけ、肉体美を見せつける。私は、誰かの体を美しいだとか汚いとか思いたくないのだ。肉体で優劣が決まる世界において、私は劣っているほうに属しているからだろう。負け戦さはしたくないのだ。一方で、肉体にコンプレックスのある人間の動機を羨むのだ。

 私は究極的に自分が好きなのかもしれない。好きは「嫌い」を孕んでいる。行き着く先は自己の破滅か。

 ここまで書いた。十分だろうか。考察が足りない。意見を求める。

 しかし、意見を求める本当の理由は、お話し相手が欲しいからに違いない。何か趣味について話をする時に人間は初めて自分の話に価値があると感じるのだ。価値がなければ、話もできないのが人間なのだろう。自問自答し、自らの考えを多角的に検討する。これは理想だろうか。ブレーンストーミングの本来の機能は、自らの自由を手にすることにあるのかもしれない。他を待つよりも、自らが他になりきり自らの考えを検討し強化していく。考えを強化して、他者との議論に勝ち、名声を手にいれる。古代ギリシャ人の魂がある。

 他人の心を読むのは難しい。読んだところで、相手は必ず嘘をつくからだ。本当であっても首を横に振り、嘘であっても首を縦にふる。ついには、何が本当で何が嘘かわからない。慣習に浸っていると、自在な考えは消滅し慣習が肉体を持ち精神の自由は消滅する。虚無感となれ親しみ、好き嫌いもなく、楽しいも楽しくないもなくなる。何もなくなる。荒野でもない、ノッペラとした地平だ。

 体を動かし神経を自分のものにする。とても大事な運動であろう。疲れなんて吹き飛ぶ。