日記ってのは人に見られないから価値があるのであって、人に見られるようになれば読む人間を想定して、その人間がどう読むかを想像し結論を誘導させようとする気持ちが起きるもんだ。つまり、自分のためのノートから相手を利用してやろうという魂胆になる。利用しようだなんて、何にどう利用するのか見当もつかないが、とにかく、早急に言えば、自分の文章が読まれると認識すれば自然と際限ない告白も終わり、自分を文章でどう見せようかと思うようになる。それが健全でもある。新聞記事の記者は、読まれるために文章を書いている。法律家だってそうだ。条文に根拠のない文章は書けない。小説家も、売れなければ小説家でもない。はずであるが、現代は、宣誓制度である。自ら、小説家と名乗れば小説家になれるし、法律家と名乗れば、相手が騙される具合に応じて法律家でもあろう。本当におかしな話だ。自分の気持ちが定まらないから書いているのだ。自らを鼓舞するような文章も悪くはない気持ちになってくる。こうして書いていることに疑問が湧いてくる。他者の視線が一度入って来れば自分を客観的に見ることができる。客観的であることはつまり、主観的であることも強く意識するようになるのだ。つまり、私はもうダメなのかもしれない。文章にしたいような日常の生活もないのだから。私は書くために行動してきたのだ。毎日日記を書いては1日あったことを細かに書いて脳を鍛え上げていたのだ。どんな些細な言動も心象も景色も、頭の中に思い描くのができるようになったくらいなのだから。脳の血流が良くなり私は本当に元気になったのも自らの生活が毎日違ったものであったからだ。私の文章は決して外の人間に読まれてはならない。私は他人の無視の中に安住を求める。詰問されることもない。自らの心をさらけ出す必要性に迫られることもない。自らの心をさらけ出すのは苦しい。自分を客観的に見る眼は非常に役には立つけれども、どうしても自分を客観的に見たくないという思いがある。私はどうしてもそれを感じずにはいられない。私は世間を嫌ってもいないし、テレビを嫌ってもいない。ただ、うまく折り合いがつかないだけであるし、上手に上手にと考えれば考えるほど下手になっていくような気持ちと同じなのである。私は世間やらテレビをはけ口に自分を探り探り吐き出させているのに他ならない。嫌いなものを食べれば気持ち悪くなって吐くだろう。それと同じで、吐かせることで取り入れた汚染物質を取り出そうとしているのに他ならない。世間は私にとってただ、恐ろしく映るのだ。今だけの話である。世間を大事にしようなんて思わなくても、世間を私は大事に思っている。テレビは嫌いだが、テレビを誰よりも見ている。嫌いなら見なければいい、関わらなければいいというが、それは違う。嫌いというのは、遠くで眺めていたいという気持ちだ。できれば自分と同じような真似はよしてほしいという気持ちだ。ホームレスが自分と同じような人生の遍歴を経験し、自分の同じような顔をしていたら嫌な気持ちになるだろう。あれと同じ。世間は虚像である。テレビもまた虚像である。何かがあると勘違いして、壁に向かって怒鳴りつけるようなものだ。

 

世間は虚像、世間は虚像。虚像であるから交われる。実像なんて、決してない。どうしてこんなことがわからない。わからないから本を読む。わからないから確かめようとする。触れようしても触れられないから虚像なのか。触れられるけれども、それは触れたと欺いているのに他ならないのだ。

 

ある対象について書くとき、その対象を乗り越えようとする。それが正しい態度かどうかわからない。何が正しいのかを探り続けるのに飽きた。ただ、金がある方に正義はつくのだろう。

 

別に人間がどうなろうと困らない。人間なんて、人間というモデルを作らなければならないほどバラバラで考えていることも違う。にもかかわらず、共感するのは環境が似ているからであろう。環境が人間を作り出すのならば、ある人がそうなったのは全て環境に抗えなかったせいであろう。医者になったのは、医者以外の道が強かったのだし、犯罪者になったのは、犯罪の誘惑についていったにすぎない。

 

人間って、人の間って書くでしょ。関係性の中に成立するんだよ。ネットワークの中に。相手を認めないことを人格無視だというでしょ。人格ってのは、IDだよ。その人は、自分のIDに沿って自分を保っている。いい人と言われれば、いい人であろうとする。ダメなやつだと言われれば、ダメなやつでいようとする。嘘でもいいから、君は綺麗だ、君は美しい、君は素敵だ、君は賢いと言わなくちゃならない。これが言葉の最後の力だ。嘘を愛せないようであるならば、真実を見ようと努力するのであるならば、人は決して嘘も真実も見えないのである。そうなったとき、人は、言葉から離れてついに人格が崩壊してしまうのだ。

 

恬淡洒脱だろう。物事に執着せず。世間もテレビも何もかも執着せず、淡々と文章を書いていれば遠いところへ行ける。足早に。コンクリートに転がる小さな石一つ一つを手にとって眺めながら、道路に投げ捨ててと繰り返すうちに時間が経ち夕方になれば、足元に転がる石もなくなってしまう。

 

執着しないのは難しい。人間はすぐに条件をつける。本を読まないから文章が書けないのだ。親が悪いから今自分の環境が悪いのだ。人のせいにする。それの良し悪しが言いたいのではない。人のせいにするのは当然なのだ。自分にいいことがあった。宝くじが当たった。それは自分のせいじゃなくて他人への善行のおかげだとする。いいことをするとお金が来る。至極単純じゃないか。お金は誰もが欲しがる。お金ぐらいしかほしいものがないとも言える。また、お金があれば安心して暮らせると考えている。お金のために何でもする、という境地のときが一番楽なのも知らない。お金がいくらあっても、人間の心はその金額を貶めるように働く。もっとお金がないと安心して暮らせない。老後が怖い。すると、お金じゃ安心は客観的には変えても主観的には買えないのがわかる。インフレになったら、お金が紙くずになるじゃないか。今まで我慢して働いてきたのにその苦労を金に買えて貯金しているのに、と。インフレが起きないように金を調整しようとする。働こうとする。もうそれだけで金以外に興味を持つ時間がなくなる。稼ぎに行くという感情がわからない。組織に帰属しておこぼれをもらっているだけじゃないか。手伝いをするのならわかるのだ。それは喜んでもらえるから。しかし、金のためとなると実にこれは不愉快だ。自分の時間が金に変わる。自分の時間が人の喜びに変わる。どっちがいいだろう。私は後者である。自分の時間を金に買えてみればいい。お金は計算できる。1秒がいくらなのかまで考え始めるだろう。