言葉について何かを書こうと思っているのだけれど、なんにも思い浮かばないので、どうすればいいのか、何をすればいいのか、さっぱりわらかない感じの私は、自分の体たらくを見つめて、どうしてこうなったのかと後悔しても始まらないから考えないようにすればいいのだと、考えているのだが、そう長くも続かないのが私の精神の力なのだろうか、すぐに本を読んだり、動画を見たり、つまりは、オナニーして忘れようと努め励んでいるのであるが、どうしてもうまくいかないような気がするので、もう、とうの昔に困り果て、維摩経を読んでは、何もこのようにないのであって、そして、そう考えず自分すらもないという、虚空を思い描くのだが、虚空もまたないのであって、あるものといえば、限定することになるのだが、あるものさえないのだ。解説も無意味で、あるのは否定の精神。全てを否定するその姿勢に、宿るものであり、バッチがあれば何をしても太っても、その地位を貪るわけにはいかない、つまり、ある社会的地位なるものの建設は実に容易に人生を渡っていく上で、簡単なる現実を創り出しそれ以外の現実は役に立たぬと決めかかって狭い場所の満たされた空間に閉じ込められ、そのうち窒息してしまうのではないかと思わないでもないのだが、本人たちは、いたって普通に毎日をくらいしているように見えるが、そうではなく、常に自分を脅かすものたちの存在には敏感で、変わったものたちを避けたり、ひどく心が怯えているので、口調の強い言い方で相手を威嚇し怒りをむき出しにする、まるで、野犬なのだ。どこにもそういう人間がいるのは当たり前で、それをなんともおもわず、こびへつらいもせず、存在もしないかのように扱うのが仏教のやり方と言ってもそれを仏教のたくさんの行いの中の、いったい何であるのかちっともわからないのである。おそらくは、現代人と言われる人間たちはものを買うために働いているわけであるが、そのものがもたらす効用を全く知らないでいるのであるならば、結局は、ゴミを買っているのとなんら変わりなく、コンセントのない縄文時代に、スマホを買って喜んでいるようなものじゃないかと、ぼやいてみても、それは愚痴にしかならず、愚痴を言ってしまうのは私が何も知らないからであるとすれば、何かを知ろうと躍起になるのもまた似合わないので結局は、私が今考えていることのほかに何を考えようとするのも難しく特に私の状態を他人に言葉で伝えるよりも、私の独り言を聞いて異相手が私をどう判断するかにかかっているのがより私が自らを欺き相手をも欺くために練られた言葉を垂れ流すよりもずっといい方法であるのはわかっているといううぬぼれになんの価値もあるわけじゃないけれど、私の嘆きなど人が聴いて楽しいものではなく人は、私の嘆きを聞くために生きているわけでもなく、ただ自分の快不快のために生きているとしたら、この世界に満ちている諸々の儀式は人をつなぎとめる幻想の中で楽しく人生を送ろうとするつまらない嘘で充満しているのではないかと、言ってみても誰も私の話など聞きはしないのだから黙っているのが一番楽なのであるかといえばそうでもなくて、自分を知るためにはいったい自分なるものと対話しなくてはならず、よく人は、私はこうこういう人間でと自己紹介するがそれは不可能であると思わないだろうか。知らない人にどういう風雨に演じて見せているのか知らないが、私の前にいるあなたは不機嫌で、どちらかというと人から好かれるタイプには見られないという時、私は見ず知らずの第三者を意識している、そしてそれが誰なのかはきっと誰も言うことができない。これはいったいどういう事態であろうか、私は一人であるはずなのに、誰かのことを意識して生きている、それが明確に誰かのためである時人間は安定するのであろうが、私のように親でも子でもない場合は非常に不安定な立場に置かれることになるのだ、つまり、相手を不安にしたいなら裏切ればいいという話ではないだろうか。私はすべての人の鏡であるし、すべての人は鏡である。私のイメージしている私は、私一人では決して見ることができないのであるし、自分が可愛いと思うのなら、機会さえ人にしちゃって、プリクラの写真を撮るのである。つまりは、あなたが愛しているものがあなただと思えばいいのであろうし、自分は本当に緊張するのも嫌だから、何か嫌なことがあればすぐそこからいなくなるのだけれどそれも自分が作った妄想だというが、その妄想さえなくなってしまえば、私は自由に人を殺めてしまう可能性もあるのであってつまりは、馬鹿ほど社会に取り込まれてうまく生きている矛盾に陥るのであるけれども、私はいったい何を言っているのだろうと思わないわけではないが、私は書きたいことしか書けないのであって、不二の考えをどう推し進めていけばより自在に世の中ないし私の心が活発になるのかと思案しているのだが、目的は、思案どうりになるわけもなくいつも計画倒れであるが、計画よりもずっと良い果実を実らせている変な状況であるのは間違いないのであろう。感情さえ教育されていれば私もきっと自分の感情を予測して偽りの涙を流し、人に共感され、うつむいてベロ出して人を馬鹿にしていたに違いないのであるし、今でも人を馬鹿にするのが好きなところもあるのであるが、そこに憎しみがあるかといえば、あまりないのだからたちは悪くないのだと言ってみたところで、相手からしてみれば、私がいったいどういう心持ちであるのかよりも、私の態度の方が問題で、相手は相手で自分自身と格闘し、自分という狭いところにうずくまって引きこもっているのだからなんとも言えない。家に引きこもるよりも、精神に引きこもっている人間のなんと多いことかと思うのであるが、現代の医者というのは、根本において技術屋で、死について考える必要はないようだ。どうしてだろうか、と考える時、私はその質問に飽き飽きしている。同じことを繰り返しているのだが、人生について考える時なんと複雑であるのかと考えるようになった、とにもかくにも、何もかもが矛盾しているがともに暮らしているのだから、秩序なるものも、矛盾を抱えないわけにはいかない。法律家は法律で生きていけると固く信じているし、経済学者は既存のモデルが生み出す利益を拡大しようと、適当に数字を並べ立てアイディアを模索している。科学者のみが、利益と数字を一緒に考えられるけれども、一体全体、人生について考えもしない。なんと素晴らしい。

 思ってもいないことをいうのは、よくない。