アウトプット

相手の視点に立ってみよう

またここにきてしまった。書くことをなんでも書けばいいという話ではないのだけれども、書いたって人に伝わらないのだから何も書いていないのと同じなのでここに色々と書きたいのだけれども、もはや、言葉で解決できるような問題じゃなくなっているような気もしているのだ。例えば、言葉であれこれと指導するけれども、それは全く意味がなくて、いや、全く意味がないわけではなくて、瞬間的な意味しか持たないわけで、言葉は永遠と残り続けるのであるならば、どうしても、私は、その執着心を捨てなくてはどうにもいかないような気がしているのだけれども、言葉についてどう思うにしろ、それが心に残らずに溶けていくような感覚にあまり慣れていないのだ。人は言葉ではあれこれというけれども、自分の肉体を動かすことは一切しないでいられると考えている。例えば、しゃべるのが一番のいい具体例になると思われるのだが、自分が喋るのが一番大切なことなんだと思うのだ。つまり、相手に聞いてもらえるような話ができればそれで十分なのであるけれども、読書は、耳から音を直接聞いて文字を読むわけではないので、感覚的に視覚に頼り、しかも、漢字という象形文字を頼りにしているから、絵画をずっと眺めているような感覚なのである。それにしても、私は全く興味がないという時、絶対に興味があると思うのだ。まず、興味がないのであるならば、頭からすっかりとなくなるはずだ。例えば、私は刺繍に興味がないし服にも興味がない。といいながら、本当に興味があるのかないのかわからないのだ。結局、余った時間を何に使うのかという選択の手段があるだけで、それに何が好きであるのか嫌いであるのかを基準にしているに過ぎないということで、好き嫌いは結局は合理主義に基づく偏見を形成するに至るのであるが、私には、一つ言えるのは、全く言いたいことがないのだ。例えば、維摩は沈黙でもって全てを語ったとされるが、私は、そう思う。沈黙は、全てを語りうるような気がする。そういう気がしてならない。沈黙は、言葉からの自由かもしれない。また、言葉を弄び人を動かすようなこともできない。言葉は本当に、皆さん気をつけて使ったほうがいいと思います。思ったことを全て言えるようになれば楽でしょうけれども、自分が考えていることがあまりにもヤバイと思える時があって、それ以外について何も考えられないような時に、いったい、自分はなぜ言葉を使って何を主張しているのかわからなくなったり、主張することが単純になりすぎて、いつも同じことばっかり言っているような状況に陥るわけです。ニュースを見れば今日も人が死んでいますが、ニュースさえなければ人は死んでいないのです。事故もなければ、明日の天気もありません。ニュースはフェイクだとアメリカのドナルドトランプ大統領が言いましたが、確かに、ニュースは根本的にはフェイクです。当事者にしか本当のことがわからない。当事者が感じているのが本当のことだから、それを他人が聞いて放送して、また他人がそれを聞くのだから相当に偏っているし、間違って胃もいるだろうと思われるのです。ニュースの根本にあるのは、いったいなんでしょうか。ニュースなど必要でしょうか。確かに、必要でしょう。国家的に優先する順位はまず、殺人を犯す人間を特定すること、そして、その動機について考察すること。あとは、アメリカの大統領が何を考えているのか、そして、北朝鮮のミサイルにスリリングな快感に酔いしれる感覚を思うだけでありましょう。北朝鮮のミサイルを見て思うのは、ミサイルを好き勝手に打つことのできる自由はあるけれども、国民はやんでご飯もろくに食べられないんだから、日本というこの国に生まれてよかった、ミサイルを撃つ自由なんて全く不要であり、かつ、ご飯が食べられるのなら最高だという話になるわけでしょう。根本に、ニュースは、自画自賛と病人の感覚があるだけです。例えば、個人レベルで物事みれば人はなんと自由なのでしょう。何を考えていても感じていても沈黙していられる。自分の考えていることが世にそぐわない場合に賛同者を求めるという果てしないことをしなくてもいい。歩いて歩いて、結局は世の中の考え方というのが本当に考えているということになるのです。決して自分の考えを主張するのが大人でもなければ子供でもないし、人間でもありません。主張というのは、いったい何をもって胃主張というのかさえ分かりません。こうして、私が書いているのもまた主張であろうという話です。結局は、何もわからない。ニュースが何を言いたいのかはっきりさせればいい、起こったことを事実だけを書くのは決してできるようなことではないし、そこには事実に近いからこそ説得力あるだろうけれども、人々が納得するだけであって、そこに自由はないわけです。もうどこから話をし始めたのか、全くわからないので、話が直線的にすっきり終わりはしないので、とても、心配なのですが、私は何を言いたいのか、アメリカでは、何か言いたいことがある人間がいいとされるけれども、日本ではな何も言わない人間が重宝されるんです。だから、私はアメリカに行ってそういう空気を吸いたいと強く思うわけです。日本人は、日本人とひとくくりにされてなんともまあ悲しいではありませんか。ある人がゴミを拾えば、日本人全員がゴミを拾ったということになる。世界でスポーツ選手が活躍すれば、自分が活躍したように思う。同じ星座の人が成功していれば、自分が成功したように感じる。結局は、自分と他人を混同しているわけです。それを明確に区別するのは非常に難しいのではないでしょうか。私には相手を区別できているようで、できていない、相手の権利ないし気持ちを理解せずに愚痴を言い、そして、行動する人が多いのを見ましたが、それを解決しようとは全く思わないのです。そういう話し合いをして、解決するために金を巻き上げる人間もいますけれども、それは本当にかわいそうなことだと思います。何か楽しいことをすればいいと思いますけれども、そればかりが人生だろうか、それは貧しい人生じゃなかろうかと、哲学の側から反論が来ます。ソクラテスは何かを主張した人でしょうか。彼は、主張に苦しめられる人間たちに、解毒剤のようなものを伝授したのではないでしょうか。つまり、自分と対話してそこから自分の対話をよく聞いて、理解するのが一番の自由への道ではないかとソクラテスは考えたのではないでしょうか。それは、仏教の維摩に関してもそうです、彼は、病気のふりをして菩薩を集め、彼らの質問を片っ端から反論して行ったのです。ある主張をし続けることもまた不自由でありますから、政治家は非常に不自由な存在です。彼らは、好きなことが言えないのです。かわいそうに。ところで今は論理が大変よく流行っておりますね。論理的に考えることができない人間が論理についてとやかくいうものです。論理的であれば、すべての人が納得すると考えているのですから。すべての人が納得するような意見がまともな意見なはずがありません、また意見それ自体が必要のないものです。疑問の形で提出され、自己を語らないのであるのならば、いったいなんのためにあるのでしょうか、意見というのは、全く自分の話を聞いてくれという甘えでしかないではありませんか。従って、政治家はかわいそうな存在で常に自分の話を聞いてくれる人を求め歩いて、聞いてくれる人を集めるのに、嘘をつくのか、それとも、自分の言いたいことを聞いてくれる人を探しに行くのかの代替二つに分かれるのではないでしょうか。つまり、政治家を解剖してみればいいのです。ついでに、医者も解剖してみましょう、痛くなったら、死んじゃえばいいと思いませんか、働いて税金を納め国民の生活をみんなで全体でよくしていくために、心臓を動かしているのす、彼らが救うのは人間の命ではなくて、人間が大事と思っている価値観に違いありません。私のように、人が死んでも生きてもどうでもいいと考える人間にとって、医者は不当なのです。金を大量にもらい、命を救って、それで、賞賛されるから、医者は素晴らしいのでしょうけれども、痛みを取り除いただけのご満悦がおに飽き飽きしてくるのも人間です。誰かにいいことをされたら、仕返しをしなくちゃならない。肩もみしても許してくれないから、金をやる。それだけの話です。自分の体を機械みたいに、結局はエンジニアと変わりないのかもしれません。変わりなくてもいいのですが。ある価値観を人が受け入れるのは非常に難しい。その別の価値観でその人の精神は、なんとか保っているからです。人格を保つのは非常に難しいものがあります。私は人格なんてなくなっても構わないと思っていますけれども、しかし、急に冷たくされると悲しくなり死んでしまいと思います。その時に、なぜ医者がいるのかと考えます。生きるのも死ぬのも、自由だと考えれば、なぜ、楽に死ねる方法というのを考えないのでしょうか。それは、結局は、自分たちの価値観からくるものよりも、他人の価値観、そして、他人もその価値観を形成して、出所不明の価値観に左右されているからです。私が嫌だと思うのは、すべての免許制度です。あらゆることを免許制にして、同じように教育したり、または、差別をする。それが何を意味するのか私にはわかりません。制度を批判しても時間の無駄でありますし、制度は私がここで書いても変わりません。だれかに受け取ってほしい私の主張なんてものもありません。ただ、自分がそういうしがらみだとか他人からの考えを捨ててしまって自分と戯れ、自分の気持ちの赴く場所に、人目を気にせずに行けるのならば楽しいのではないでしょうか。それこそ、自分が、本当に自分が現れる場所なのではないでしょうか。不機嫌ん顔してもいいんです、そういう日もあるでしょう。嫌いな人間がいてもいいんです。そういう時もあります。そういう人もいます。ただ、相手を嫌いだと思うことが嫌いだという人もいるでしょう。どうぞ、嫌いな人と付き合ってください。何も悪いことはありません。何かを変えようとすると起動して今までの自分の否定から入るのでしょうか。私が否定するのは主張であったり、もう年であったり想像であったり政治であったりするのですが、否定する私を否定してしまえば、私は滅してしまいます。どこにいったのか、辺りを見渡せば、私は自由の空気を吸って街を歩くのです。落ちているタバコにマナーの悪さを見ます。歩くサラリーマンに、人生は非常につらいものだという顔して、もしくは、図に乗って自分はかっこいいと思っている人間たちに出くわします。自分が、自分が、自分が隣っているのが現代です。私は現代がどうしても好きになれません。彼らは、楽しければいいと言います。じゃ、何が楽しいのかというと女であったりアニメであったり、ダンスであったり色々とあるわけです。楽しいのは人によって違うわけです。何が楽しいのか、愚痴を言うのも楽しいのかもしれません。つまり、反応です。私が愚痴を聞けば、こいつはなんと人に不快を振りまいて嫌な奴だと思います。それならば、どこかへ私がいけばいい話です。しかし、愚痴はどこへいってもついてきます。あるがままを受け入れるよりも、相手の愚痴を聞いている方が自分が話さなくて済むと考えているのです。私の考えは人に受け入れられるものじゃないんだという心境でいるのです。なぜならば、世の人たちがひじょうに同じような考えをしているのだというのに気づくからです。私の目は死んでいるように見えます。半分愛ためです。二重です。それだけで、相手になんらかの妄想を吹き込むのには十分であると言わざるおえません。私は唯一信じたいと思うのは、偉そうな人間は非常に貧しいということ、その人間は現実逃避をして、現実から目をそらして、自分の周りに気に入った人間ばかり集めているのです。助け合おうという精神がまずありません。大学生をみてください、高校性をみてください、中学生、小学生、友達がいます。友達というのは、小さな集団でありますが、友達以外の集団にはひどく冷酷です。この国は特にそうです。新しい人を受け入れる土壌が全くありません。この国にあるのは秩序と言われる、牢獄です。私たちの心の中にすでに秩序があります。それで充分じゃありませんか。例えば、髪を切らなくてはならない。それはなぜかというと、よく分からない。皆そうしているからそうしなくちゃならない。旅行に行かなければならない。なんと面倒なことでしょう。ドラえもんのポケットにあった衛星写真で旅行するのは今、グーグルマップで実現できました。それで楽しいと思えるでしょうか。やはりその土地の空気を、雰囲気を楽しむのでしょう。外国人が日本に来たらさぞ面白いでしょうが、私にとってはなんとも無意識の中にあって、さらに、長く住んでいるから、私がどう見られて不自由を感じているのかというところまで明らかにしてくれます。つまり、住むほどにいいところも嫌なところも見てきているわけです。それをどこまで感じるのかは自由です。私は自由が好きです。誰からも咎められることなく、笑顔で私の人生を見つめてほしい。誰かを追求して、悪口を言って相手を貶め自分の価値を上げるような真似をするのは大嫌いです。私は究極的に人があまり好きではありません。そんな私は、人間とは、人間とは、と言いまくる場合、自分が好きな人間は少なからずいるようです。しかし、そういうった人間の考えていることもわかるのです。腹の中が透けて見えるわですから、私は自分の好きな人間も嫌いになってしまいます。誰も好きになれません。誰かを好きにならなくてはいけないのでしょうか。そして、誰かのために尽くさなくちゃならないのでしょうか。自分の精神の安定のために愛を求めなくちゃいけないのでしょうか。アプローチの仕方をかえればいいんじゃないでしょうか。私はそう思うのですが、それは主張でしょうか。主張であるならば、すぐに反論しなくちゃならないのが議論でしょうか、議論、議論というけれども、話し合いに変わりありません。お茶を飲みながら気軽に決めればいいんです。それでは、他人からの承認なしにどうすれば、自分は正当化されるのでしょうか。偏見を持つことではないでしょうか。偏見とヘイトスピーチは違います。偏見とは、例えば、荷物を持った老人を見て手伝ってやろうかと思うこともまた偏見ではないでしょうか。その人は、荷物を他人に触られたくないともいます。としたら、そう考えているのは私で、私はそうして欲しくないのでしょう。つまり、自分の話を聞いてくれる人を失ってから、私はひどく相手を偏見の目で見て、自分の話を偏見に置き換えて、ひとりしゃべっているのでありますから、誰からも耳を傾けられないのも重々承知であるのも確かなのです。私という人間は生きる価値がありません。人間失格を書いた、太宰治は、彼自身、どうしても、生きる理由を見つけられなかったのでしょう。生きなくてもいいのです。楽しいと思ったことがないのでしょうあ。恵まれた子供は大変です。楽しいと思うことが少ないからです。それで、没頭することなく生きていくのですから、周りから見たら、おっとりしていてマイペースといったところでしょう。他人からの承認なしに、生きているような人間は自分の中にたくさんの人がいる人間であると思われます。現代は、あまりに承認欲求を必要としすぎているようにも思われます。何をしようにも人の目が気になる。人の許しが必要となる、自分を下に見ているのです。自分のしていることに自信がないのです。そして、自分の価値観を信じられないでいるのです。でも、それは自分の価値観という偏見を捨て去り、無の境地に達して何をしても楽しいという状況を作れないわけもありません。非常に難しいのですが、私は、無心であれ、なんであれ、何かに没頭しているとき人間は充実した生活を送っているように思われるものだと思います。しかし、人生に充実感は必要でしょうか。私は必要であるという意見も、そうでないという意見も両方持っています。矛盾しながらも、一つである。決して二つなるものはありません。例えば、どこへ行こうにも、どこへ行かないにしろ、同じことです。世界を旅行するのも、哲学書に没頭するのも変わりありません。ですから、世界を旅行した人はいたって私たちと同じような感覚です。ただ、思い出の形が違うだけです。それは、いろんな形の野菜があるのと変わりありません。何もないというのは、それ自体おかしな話で、なにもないというのさえないのです。つまり、すべてあるということでしょうか。あるのならば、それを感じればいいのに、それをしないでいる。なんとくだらない文章を延々と書いているのでしょう。私は樋口一葉の文章が大好きですから、もっと読みたいと思うのですが、彼女はもう死んでしまったので読むことができない。なんと、悲しいのでしょう。私は泣いたか?なくわけがありません。ただ、残念だと思うだけです。それもほんの少しです。それでは、それほどでしか好きでなかったのかという話になります。そうです、多分そうなのです。ああ、酒の飲み過ぎは腎臓や肝臓に悪いのをわかっているのにどうしても飲んでしまうのです。頭の中のモヤモヤが解決されるためには何をするべきなのかもうわかっているという考えが大嫌いです。例えば、人参ではなくて、ジャガイモでもいいわけです。こだわるのが一番良くないという。