吐き出したもの

私は常に書きすぎる。特に、心理描写なんて雑だ。雑というのか、感覚としてそう思われるのだ。自分が書いていて、なにもしっくりこない。納得のできる文章ではないからそうなるのだ。究極は、最高のおナニーネタを探し回っているのかもしれない。自分が楽しくなるネタを探して走り回っているのだ。政治もそうかもしれない。どんなに悪いことがあっても、どう法律や世間の流れを汲んで言い逃れしたら、うやむやにするのかを考える。徹底的に追求することはないので、

禍根は残る。未来の子供達のために二酸化炭素の排出量を減らし、国土が海に犯されるのを防ごう。異常気象も二酸化炭素上昇のためだ。確かに、そうかもしれない。政治家は子供をも利用する。天気が悪ければ、外で遊べない。学校へ行くとき傘が必要になる。必要なら、傘をさせばいい。外で遊べないなら、体育館で遊べばいい。なんのために施設があるのか。閑散として、建物を作るだけ作って、そこで楽しく遊んでいるのは特定のお友達だけじゃないか。

 

私がいいたいこと?そんなの一言もありませんよ。セックスすれば子供も生まれるし、髪も切らなければ、アホに見えるでしょう。世に、闘いの意思がないのです、私には。常に、自分は従ってきたのだからという自負がありますが、なんの役にも立ちません。学生時代何をしましたか。よりも、これから何をしたいですかと問われても、どちらも答えようがない。なにせ、自分が、切実に何かを変えようという気概もそういうった境遇にもないからだ。だから、どうでもいいことをきかれたら、どうでもいいですね、何か起これば、何かすらします、くらいのことしか言えない。どう考えても、いろいろと人間はだましあって、生きているのだと考えると永遠に疲れる。私は騙し合いに疲れたし、それを勘ぐって相手に真理を読む解くようなことはしたくもない。自分が本当に思うことだけをすればいいのだろうと思う。しかし、金がそう人を解放させないのだ。世界の数パーセントが金を持って、小金稼ぎが頑張るのである。それで社会は回っている。社会は回ってさえいればいいのだ。忙しくて、何も考えることもできない、具体的には、読書ができない。ネットニュースばかり見て時間を過ごす、ゲームをして時間を過ごす、テレビを見てといった風に、一種、生まれてきた人間は諦めの気持ちがあるからうまくやっていけるのだろうかと勘ぐる。もう、私は世の中を評論するのに興味がない、ただ、偏見を持っているであろう人物をめちゃくちゃにやりこめたいと思うのだ。そのためには、決してイエスとは言わないことだ。映画ではハッピーエンドであったろうか、イエスマンは。彼は、女を裏切る。まあ、どうでもいいことだ。うらぎるにしても、それさえも一つのフェイクだとしたら、一体、何を人間は好むのだろう。決して、あるものに満足しない。いずれ消えていくご飯をありがたがるのは、興味深いものである。ここに書いても意味がない。じゃどこに書くのか。各場所がないから困っている。紙に書けばいいのか。手を動かすのは、脳に良い。良いことを純粋にすればいい。しかし、良いと言われることが次第に悪くなっていく、もしくは、初めからよくもなんともないということになる。しかし、手で感じを書かなければ忘れてしまうじゃないか。だから、書いたほうがいい。微妙な曲線であるとか、手の繊細であろう動きは脳を活性化するであろうし、脳の活性化は喜びでもある。一番良くないのが、観念論に走ることであろう。世界は、であるとか、愛は、であるとか、そういったことに書かずりあっていると最初のうちは本当にいい気持ちになるが、後の方から何も聞こえなくなる。意味はわかるが、意味が分かるだけなのだ。それに対して、リアクションがないのだ。世の中は、相手が抱えている問題と呼ばれる病的状態で、胃もたれし顔色を悪くし心配させていることを、吐き出させること、栄養を与えることで成り立っているのかもしれない。フラストレーションを回避しても、根元にストレスの生える木があるのだから、それは気晴らしであって、喜びにはならない。私は、脈略のない文章を書くかあら人に読まれないし、自分も一応一人の読者であるから、この文章はなんてひどいんだと思わないでもない。しかし、書きながらにして頭にポツポツと記憶が浮かんでくるのだ。台風の日の鹿児島であったり、その帰りに土砂降りに高速道路で土砂降りに遭遇したり、あるいは、別の日に、高速道路で時速百九十キロ走っていく日産キューブを見て、こいつは頭がいかれているのかと思ったりもした。私もバイクの乗り方をたまに忘れてしまうので、ここに書くのであるが、そうはしても意味がないとは言えない。私は書くことで脳に書いているのであって、決して掲示板に書いているのではない。例えば、私は講義中に口述筆記をする。それだけで、終わりだ。何を考えもしない。あるのは文字だけである。それを討論するとなると、しかし、そういった議論になったことはないので、また、避けたい状況であるのでしかたない。この国の人たちは陽気ではなく、陰湿でもなく、ただ、腐った雑巾のように、何か、一つの価値観を持っている。話が非常に面白くない。独自の見解を見せれば、異端者と思われる。面白ければ救いようがある。面白くなければ変な奴だ。たぶん、普通であるのが勝ちなのであるが、今まで普通であった人間がリタイアした先に変人になったとしたら、普通をありがたがる人間の先を行っているのであるから、別段変人であるのを卑下することもないが、普通は自分が変人であるのを卑下したほうが、普通らしいので、やはり普通に落ち着くのだ。新しい世界はもうないのだろうか。非常に難しい。恋すれば、森が海が美しく見える。絵が、美しく見える。それは恋を通しているからなのだろうか。わがままになれば、そう見えるのだ。本当に、嫌なことをしていれば、絵は値段でしかなく、多恵が時間の中作られて、動機不明の、俺だってかけるといったところに落ち着くであろう。何もテーマなく書いているので何が口から飛び出してくるのかわからない。私の口から飛び出してくるものなんてたかが知れいているだろうと思う。法律かも金持ちの奴隷になって、あくせく働いて裁判官の顔色見て大変だろうと思われる。一方で、法律的にある貧しい人や社会的に不当な扱いをされている人間を救うのはやりがいがあるように思われる。金を追い求めるのは結構だ。しかしそれは、金を今まで手にしたことのない人間がすることなのかもしれない。金儲けに走れば、より金持ちに利用されるのだ。そうじゃないか。興味もないのに研究をして、会社からもらった金で女と遊び、金をチラつかせて女を呼び、ホテルでセックスしたり、内心は、俺はお前を金で遊ぶ女だと思っている、女はそんなもんだ、と粋がっているのだろうと思われる。もしくは、善人で、世の女性のために自分があらゆる苦しみを担ってやろうと十字架にかかる人間もいる。女からしてみれば、金持ちの男の愛は信じたいし、善人の優しさもまた信じたいがどこか胡散臭さがあるのだ。そういうもんだ。世の中は実に胃の中に何か汚いものを入れて喜んでいるのだ。私もまたそうなのだろう。結局善人は悪人になり、金持ちは貧乏人に成るとすれば、より金持ちになりたければ、貧乏人になり、善人になりたければ、悪人になるしかない。より、善人になることは、善人が悪人であるということだ。再び、話が善人だとかつまらないことに及んでいる。心の底から善人も悪人も同じだと思っている。警察も、犯罪者も同じだ。市民も犯罪者も同じだ。人間は、もし、人間同士つながっているから人間であるとするならば、犯罪者もどこかでつながっているのだから、人間である。何が言いたいのだろう。死刑をしろという時、死刑を代わりに自殺者志願者が買って出ればいいのだろうか。それでは、悪人を殺すという、人間たちの要望にお応えできないのかもしれない。私の日本語のチョイスがおかしいのは、テレビとネット記事の読みすぎなのかもしれない。なるべく、日本語の記事は読まないようにしている。誰が書いたの書かれてもいない。いずれ来るかもしれない経済破綻も、世の中すべてが破綻すれば、おそらく日本人は安心して破綻するであろう。日本が、世の中に先んじて破綻すれば、相当嫌な人も出てくるであろう。なんと、腹の中が気持ち悪いことか。何が観念だとか、もうまともに思考ができないのか、私は。ただ、書きまくって書きまくってそれが後世に伝わるのかどうか知らないが、それだってどうでもいいことなのだろう。人に読ませる記事を書くよりも、自分の書いた記事が読まれるところに行きたい人間だ、人に合わせるのも嫌いであるし、人を矯正して合わせる気もない、とするならば、人間同士は本音でコミュニケーションすればいいのだ。しかし、恋に関してはやめてほしい。最後人間の安全地帯までを壊してほしくはないのだ。めいめいが持っている希望や夢にケチをつけると人間は怒る。それが彼のよりどころなのであるし、なぜ生きているのかという問いに対してのひとつの確信めいた結論なのであるから。それにケチをつければ、おそらくソクラテスは、そういったことをしたのであろう。金を稼ぎ、自分が一番弁論がたつといった雄弁家たちは、この、ソクラテスというなんとも奇怪な男の前では、太刀打ちできなかったのだ。もはや、嘘はやめろ。本心のままに生きろ。そう思うのだ。私の本心はなんであろうか。私について知ること、それは社会全般について知ることでもある。他人の考えに、寄り添っているような真似はよしたほうがいい。特に、こんにちは離婚が流行っているが、それは、自分の意見を捨てきれないからでもあろう。結婚なんてする必要はない。ただ、集団的に結婚するのだ。だれも、個人的に結婚なんてしないであろう。結婚制度がなくなれば、どうだろう。浮気も、不倫もなくなるじゃないか。生まれてきた子供は、皆が面倒を見ればいい。他にすることがあるだろうか。たすけあうにも金がいるのだろうか。娯楽を追求するために。ゲームに課金をするのと、バイクに乗るのはどう違うのであろうか。感覚的な違いはあるだろうが、好きなことをしているのに変わりはない。いったい、どうしてしまったんだ世の中は、と言ってみたいが、昔からもそうなのかもしれない。ただ、職業選択の自由はあまり良くなかったのかもしれない。それは、人に努力をさせ疲弊させ慣れないことを死ぬまでさせることになる。職業が、その人の魅力になる。おそらくは、資格社会がいけないのか。しかし、それは無理な話だ。人よりも抜きん出ようという気持ちを持てば、地獄である。好きなことをして暮らせばいい話だ。それに、ある程度の常識を持っていれば働ける社会にするべきで、何かの専門的な知識を必要とするような社会は、よくない。専門的な知識があれば、金になると持っている。確かに、ある程度金にはなるであろうが、自分が成長することもないであろう。いろんな経験をしたほうが、より社会を理解することにはならないだろうか。それとも、社会とはあまり関わらないほうが身のためであるし、精神の安定に寄与する部分も大いにあるのかもしれない。一生懸命働いている人間の、娯楽への追求と自己主張の強さは異常である。中には、そうでない人間もいるであろうが、私は娯楽は娯楽として楽しみたいと思っているし、何も、憂さ晴らしに休日を快楽の中に暮らしたいとはちっとも思わないのだ。なぜならば、快楽には不快が必要であるからだ。不快を求めるようになる。次第に、愚痴がふえる。愚痴が増えて、私は苦労話と愚痴が大嫌いであるから、それを聞かされる私は疲れる、疲弊する。それだけのことだ。私はいくら自分が疲れても、決して他人にそれを見せたりはしない。そうしないのが、自分のポリシーでもある。しかし、他人からすればどうでもいいことなのだ。では、他人に必要とされる人生はどうだろうか。私がいなければ、楽しく生きていけないとするならば、相当な奴である。自分が先に死んだ場合、誰が面倒を見るというのだ。放り投げ出された人間は、また、似たような人を探し求めるのだろう。それが人生だと、結論づけるようなことはしたくないのだ。なぜならば、自分から楽しみを見出せる人間になるべきだからだ。人に何かを期待して楽しさを提供してもらうのが大嫌いだ。ディズニーランドも大嫌いだ。なぜ、大人になってもディズニーランドへ行くのかちっともわからない。ちっとも、趣味趣向が高尚なものに変わっていない。高尚なものとは実に、地味である。地味であるから味わい深く、心に迫る。ミッキーがおどけて一緒に握手して写真を撮っても、それを3秒たりともまともに見ることはないだろう。もし使うのならば、家の飾りであるとか、映画のワンシーンくらいだ。見ることは決してないのに写真を撮って飾りにして、3秒も見ないのだからおかしくはないだろうか。雰囲気を楽しみにしているのであるにしても、私はディズニーランドへ行けばもちろん多少は楽しいが、これを根っから楽しんでいる人間が家に帰ればいったいどういうった面持ちであるのか、非常に興味がある。非日常の世界から抜け出した時、待っているはずの日常。日常があまりにも、ファンシーでないから、非日常に喜びを見出す。それは、いったいなんだろう。アラブの王様が蛇口をひねれば金が出てくる。さて、何をする。金で女と遊ぶこともできるだろう。金で車を買いかっ飛ばすこともできるであろう。それらは楽しいに決まっている。楽しいに決まっているのは、それが彼らの日常であるからだ。日常的に楽しいことをしたほうがいいではないか。疲れた。それで終わりだ。日本人は疲れたら、あとはその緊張にみちた体を弛緩させるために、お風呂に入ったり、布団に横になるのだ。時には、ビールを飲んで気を紛らわせるだろう。しかし、健康的ではないようなのでビールは控えるようにとこうくるから、何か少し打鍵罪悪感を一緒にしてビールを飲むのだ。それか、もう仕事なんてしたくないといってビールを浴びるように飲むか、それだけである。私はビールのほうがいいかもしれない、ウィスキーは熱くなるが気分はあまり良くならない。ビールを飲むと糖分があるせいか眠くなる。それくらい自分の体について何も知らないから、人間ドッグに行かなくちゃならない。気持ちのいいという体の状態を知らないからだ。下手なコメディーはすぐに下ネタに走る。何もおもしろくないわけではない、ただ、笑いが習慣化されているのだ。人間は面白いから笑う時は非常に少ない。なぜならば、それは突発的であるし、見る人によってお笑いは違うからだ。私は笑いを吉本から奪い去りたいのかもしれない。あるいは、世間から。何が楽しいのか、何が貴重であるのか、それをテレビで知りたくないのだ。彼らは広告主のいいなりでもあるからだ。公共放送は、くだらない倫理観の元で放送している。自分で自分たちの首を絞める。お笑いは習慣化されてしまった。感動もそうかもしれない。人の優しさもそうかもしれない。人間はすこし惑わされすぎているのかもしれない。自分の本当の気持ちを前面に出す人間がいるだろうか。俳優も、日本の俳優はお遊戯だ。習慣的なしぐさがあるだけだ。セリフの言い回しもそうだ。端的に言おう。魂がない。魂のない幽霊が大きな映画館のスクリーンに写っている。魂が、ないのだ。魂は、この八百万の国では嫌われてしまうのだ。神があらゆる細部に宿って、魂は、非常に窮屈な思いをしている。法律で行動を縛り、習慣と常識で価値観を縛り、まずいものを美味しいと食わされて、質はいいが何の喜びも楽しみもないではないか。わたしは、この国に絶望しているのはなく、この国の人間に絶望しているのである。チャットをすれば、何歳と聞いてくる。彼らは、それ以外の会話を知らない。自分が見て聞いたことがないのだ。ちょっとした、石ころの描写さえできないのに、いったい、彼らはどこを生きているのだろう。この現実の世界に彼らは生きていないのではないか。会社の後に飲み会をして愚痴を言い合う、または、褒めあう。褒められたら、それに縛られる。同じ行動をしようと躍起になる。これは、束縛ではないか。好きだという、相手はもっと好きになってもらおうと努力するかもしれない。これも、立派な束縛ではないか。相手を束縛する方法はあらゆるところにある。確かに、そういった束縛の中を生きるのもいいかもしれない、自由になったところで何が楽しいことがあるのかちっともわからないという人間もいるが、彼らはそもそも自由が楽しいという固定概念があるのでちっとも自由じゃない。どうしてそうも、固定概念を持ちたがるのか。彼らもまた、固定概念を信じたくもないが、どうも社会で力を持っているのは、ある一定の価値観であるのを感じた時に、自分もそれに習おうとするのである。自分の生命を守ってくれる価値観にとびつこうするのである。それに尽きるとすれば、人間は生命の奴隷である。生きることのどれになっているではないか。生きることは素晴らしいと、ブッダもキリストも言っちゃいないはずだ。生きても死んでも、なにも変わることがない。だから、キリストが生き返っても、そこに価値はないのだ、迫害をして人が死んだとて、それが何になる。生き返ってみたとすれば、その迫害に何の意味がある。迫害の無力さと、迫害に会う人たちはそう感じてはいないのだろうか。変転常ない世の中で、ほとんどすべての価値観はやはり滅び去るものであるし、質を変えて全く受け入れられないものなるであろう。今を謳歌しているように見える若者も、老人も、男女も、大人も、子供もそうである。世の中は無常であるから、意味もなければ、生きがいもないし、無常さえないのだ。いったい何があるのか、という時、何もないのだからといっても、また、意味がないのだ。何かがあるから、何もないというのだ。それは、習慣から、常識から、言わないだけであるのか、それとも、それが何であるのかわからないから言えないのかはわからない。価値観もまた人を惑わす、自分がしたいことをできないでいられるのも、価値観があるからだ。思えば、皆金縛りにあっているようなものだ。夢遊病者のような気がする。やりとりにしても、なにも新しいことがないのだ。会話にしてもそうだ。仕事の話しかできないようであるし、それ以外の話をすれば、きっと仕事をしていないのだろうと思われるのだから。わたしはきっとなにも話したくないのだろうと、自分を断定することもしない。自分を断定して、あらゆる可能性の幹、頭にあるニューロンの働きを無視するのは不快である。私は自分が文字で気持ちがハイになればそれで十分なのである。歴史的事実は今日全く意味を持たないし、生半可な知識であるならばちっとも金にもならないが、自分が興味を持って話したいこと、楽しいと思ったことが、金にならないほど、高級なことはないのかもしれない。いくら金があっても、英語は上手くならない。いくら金があっても、死んだ人間を喜ばせることはできない。せいぜい、死んだ人間に対する悲しみを、酒を飲んで忘れたり新しく女や友達を作って忘れるか、英語を話せずしどろもどろしている自分に対して、英語を話せる人間を連れてきて横に常駐させるかであろう。つまり、言葉もわからないのに、話そうとするのはいったい何のためであるかと疑問に残るのである。言葉がわからないなりに、お互いを理解するために、話すのであるならばいいが、互いに理解することなど困難であろう。相手の価値観を受け入れるのか、それを受け入れて楽しい思いをすることもあるだろうが、その間に相手に依存していく自分は、自分の価値観を捨ててしまっているのだから、何かがなくなっているのだ。しかし、維摩が説いたように、森羅万象不二である。良いも悪いもないし。ないもないのだ。また、そのないというのまた、ないのであるから。すべてがないとするならば、今触ったこのキーボードもないし、また、液晶画面もないのだ。何にもないのだ。意識を飛ばしてみよう。その状態の時に、人間の体のどこからかが話しかけてくる。恋だけが、唯一、文字化された人間の心理的または身体的な情報で、その情報は生身の人間にアクセスできる。それ以外の、理念であるとか、理想、道徳的価値観は、人間の生身から発せられたものではないので、異質感があるのかもしれない。そう考えた時に、最後の維摩の教えは沈黙であった。沈黙とは、黙って相手をにらみつけることではない。沈黙とは、放心状態かもしれない。心を解き放って、あらゆる作られた状況を取っ払う作業かもしれない。見えなかったものが見えるようになり、見えていたものも見えなくなる。そういった状況なのかもしれない。メディアが氾濫して、読む記事は多くなったと勘違いしている、ただ、何も興味もない記事はよまないようになり、気になるニュースばかりを取り上げてそればかり見る。つまり、どんどんバカになっていく。人間は、どんどんバカになっているじゃないか。プログラミングができて、動画で人間を釣ることはできても、それは非常に低級なものだ。やはり、文字こそが一番人間の生身に近いものであろう。何か道具を使ってでしか、自分を表せないのであり、伝えられないとすれば不便だ。次に来るのは、絵であろう。動画は、人間が作れるものではない。些細な感覚を書くのは神経に答える。一人の時間が欲しいのかもしれない。そこから生まれるものは何もないけれどね。でも、自分を取り戻す時はいつもそうしなくちゃならなかったような気がする。相手に合わせるのは気苦労がある。まともに合わせようとしているからだ。結局は私は排外主義的なのかもしれない。反知性主義というものがあって、怖いものも目を瞑れば怖くないのであって、自分たちの社会も、借金なんて気にしなければ怖くもないし、怖くないのであるから、楽しく過ごせるのだ。まさに、理にかなって入るし、確かにそうであるように思われる。あまりにも辛い人間たちが、自分たちの社会福祉を手厚くしてくれる政党に票を入れるのではなくて、景気のいいことばかり言っている人間に票を入れるのは、当たり前のことではないか。何も、財政を再建した国があるのであれば、そこの国は立派であったというわけで、この国人間は特に立派な人もいないので、皆気軽に話せるが、しかし、貧困はあるので、それらが、一色単に集まっているのだ。ルーが固まった鍋のようなものかもしれない。何も主張するべきでもないのかもしれない。浮かんでくる想念をもはや文字にさえしたくないのである。私はもう自由なのだろうか。私は意識を失っていしまいたいと思う。何も楽しいことがないわけではない。どこか暗いのがいつもついてくる。それが陰影になって、彫りが深くなって見えるのかもしれない。それはのっぺらぼうよりマシな顔立ちだろう。気晴らしに書いているだけだ。しかし、私の言いたいことだ。私の言いたいことに価値はない。それは、私の言いたいことだからである。誰かの言いたいことを代弁するのであるならば、価値がある。人間が社会的な環境に左右されるのであるならば、ある人間の主張は必ず社会的な環境のもと生きてきたんいんげんの心に響くのであろう。しかし、私は環境さえ共有したくないのだ。自分独自の世界観ともまた違う。気楽になれと社会を説教する気も起きなければ、自分が社会に合わせて自分を変えてしまおうとも思わない。多分、何も書きたくないのだろう。書きたくないのだから、こうして書いているのだ。海が見える。遠くに太陽が眩しく船を照らす。一匹のクジラが飛んだ。大きなクジラが太陽をさえぎった。そして、海に落ちると大きな波が押し寄せ、船は転覆した。投げ出されたわたしは海に沈んでいく。海底に行くほどに、暖かくなった。また、呼吸もできた。ついに海底についた。上の方が真っ暗だ。よく目が見える。周囲には魚が泳いでいる。見たことのない魚だ。オレンジ色をしてる。しかし、光がないのでわからない。ペンライトで照らしてみたのだ。それにしても、暖かい。沖縄位煮るような暖かさだ。どうしてこうも暖かいのだろう。わからない。わからないけれども、本当に暖かいのだ。ここで死ぬのだろうか。泳いでいる魚を食べる気も起きない。それは、不気味な形をしているからではない。食べる気も起きない。呼吸もできるし、暖かい。海底の砂は布団のように柔らかい。しかし、周囲は真っ暗だが、なぜか自分の周囲だけ光が照らし出されている。ここは天国だろうか。天国は上にあるものとばかり思っていたが、海の底にもあったのか。それとも海の底にあるのが天国だろうか。わけがわからない。一匹の蟹が歩いてきた。巨大で不気味だ。ハサミで足をはさんできたが、痛くない。心地よい感じだ。魚が目の前でゆらゆら泳ぎ回っている。歓迎しているのだろうか。しかし、目で追いかけていると少し気持ち悪くなる。ここにいないのは、女だ。女はいない。自分は男だ。しかし、女がいないと男も存在しないんだ。自分はたぶん生きていないだろう。しかし、死んでもいない。魚であるとか、女であるとか、価値観だけで生きている。それは偏見であると、誰が言えようか。いや、やはり偏見なのである。地上の人間はすぐに価値観を共有したがっていた。何か美味しいものがあると一緒にご飯を食べた。綺麗な場所があると一緒に旅行にも行った。結婚しなくちゃならないと言って、経済的な地盤を固めようとした。ちっとも面白いことがなかったわけではない。ただ、だんだんと色あせてきたのだ。それは、人間が慣れてしまったからなのだろうか。簡単である。新ことをすればいい。それも、どこか全部に通っていた。しかし、ここにあるのは、奇妙なカニと魚たち、それらは動くものだが、海藻も揺らぎ、砂もある。水槽の中にいるのか。外に目がある。その目は私の行動を監視している。行動は監視できても、私の頭の中までは監視できない。何かを表現して自分の内面をさらけ出すのは、どうだろう。それが、きっとロクデモナイクラダライものだとみなから笑われるものだとしても、自分はまだそれに興味を示すだろうか。私の持っている価値観とやらを外に出して、皆が見向きもしなければ、私はその価値観を捨てるだろう。私が偏見に付き合わされて自家中毒になっているのも、自分の内面をさらけ出せないからであろう、自分の持っている価値観ほど不要なものもないではないか。それは、素晴らしい価値観であるのならば、お世辞でなく。本気で人は尊敬するであろう。しかし、尊敬されるための価値観であるならば、尊敬はされないであろう。つまり、世の中を投げているのは、自分がこの心の中にあるたまったなにかを吐きだすバケツがないので嘆いているだけのことで、もうそこらじゅうがバケツだと思えばいいのかもしれない。ほんとうに、心で記憶するのは難しいことだ。私はこれで1万文字を書いた。一文字一円だとしても一万円である。何も書くこともなくなったのでこの辺りにしておこう。それにしても、自分は非常に難しいことをしているのかもしれない。普通ならば、専門用語と常識的言い回しを多用して、自分が常識を持っているとアピールすることもできたであろうし、そんなことあhちっとも考えないまでも、それが楽だったかもしれないが、ちっとも楽でないのは明白である。わたしはもっと黙らなければならないし、何か憂鬱が忍び込んできそうになったら、そっと他のことに注視しなくちゃならない。自分が生きているのが何かに見守られているよりも、誰かに非難の目で見られることに無常に嫌悪感を感じるのである。どうせ見るのであるならば、直接見ればいい話ではないか。多くの人は喧嘩を装うというが、小さな喧嘩くらいしなくちゃどうしようも生きていられないじゃないか。喧嘩となればすぐに暴力が思い浮かぶ人間がいて、すぐに戦争と考えるのもまたおかしな話だ。どうしても、理論武装しなくちゃ外に出られないのならば、理論武装すればいい。それは、理論を守ってくれる人間がいるから武装できているのであることも忘れないでいるといい。必ず誰かに破られ武装解除をさせられるのだし、その前に、もしかすれば、その不要な武器の重荷に耐えかねて武器を捨てかねないのだから。私はちっとも悪くないと言ってみたところで、私の無意識は、私は最高の悪者に仕立て上げる。スピード上げて解釈しなくちゃならない、そこに、異論も反論も金も名誉もない。そんな世界で価値観はない。何をしても楽しくないということにもなりうる。その時どうするか。やはり、この苦界にいきているのだから、なにかしら間違ったことをしなくちゃならないするならば、なんと悲しい世界であろうか。人を好きになれないというよりも、人は好きだけれども、人が嫌いな方が楽だという気持ちがあるのかもしれない。いずれにしろ、私はもはや何を言いたいのかちっともわからない。だれも読んでくれないこの文章を書いているのだから、頭がきっとおかしいのであろう。誰かの意見を聞いて、その人の話を聞くといつも書くが、誰も私に意見してくる人もいないのでちっとも役に立たない。議論をすれば、それは無駄だからやめろといった宮沢賢治は今死んで星になったのだろうか。何か明るいことが転がっていないのかと、自分の心が落ち込んでいるから、明るいのを見ると少し嫉妬するのである。なぜならば、私だって明るくなれたのだし、それは私だと思うからだ。そう考えると、私はよく深く執着心が強い。何に対してかというと、世間を馬鹿にすることに対してである。しかし、逆に自分の立場を表明している言える。つまり、自分は、ちっともこの世の中で輝いていないし、人からうらやましがられるようなことをしていないと。ある日僕が行きついた結論は、とにかく一生懸命に何かに没頭して、そして、元気になれることならば、それが自分のつまらないポリシーや自分の価値観のために壊されてはならないと、そう思ったのだ。これは至極当たり前の話かもしれない。間違ってもいるかもしれないが、少しでも自分が生きているのを感じなくちゃならないのである。私はこうして奇妙にも文字を多く書いてきた。芥川龍之介は私にとって非常に、文字に生き、文字に死んだ人と言える。文字が好きだ。文字を愛しているのだ。なぜなのかはちっともわからない。次は、自分の気持ちが楽なるために考えていこうと思う。真実らしきものはたくさんあったけれども、どれも人間を幸せにするとは思えなかった。何か楽しいことを考えていきたいと思う。その時に、誰かの意向に従って考えるのは少し休んでしまいたいと考えている。第一にその誰かも、私が楽しいと思っていることを楽しんでくれるかもしれない。それに賭けるしかないのではないだろうか。私はこうしてずっとここにいるのだけれども、いつ追い出されるかわからないので非常に不安なのである。