アウトプット

相手の視点に立ってみよう

 脳みそに常に騙されるのは、あまりいい気持ちではない。例えば、君が何かをしようとあくせくするとしよう、脳はその状況を大いに楽しんでいるのだ。

つまり、脳みそには楽をしようという気持ちもあれば、同じように苦しんでやろうと思うところがある。タバコだって、一度や二度吸っただけで依存症になるのは初めの方で、しばらく禁煙期間があれば、タバコを1日に数十本吸ったくらいでは、依存症にはならないのだ。体は、悪い物質への反応を快感を感じてしまうところが、どうもあるらしいのだ。だから、一番はじめが一番依存症になりやすいのだ。他に趣味が見つかれば、そちらに脳みそもシフトされて、いわば、脳みそを騙すのだからそれでいいのだ。意識をぶっ飛ばすことで、一度脳みそからの支配を免れるのは、悪い経験だとは思えない。

 長谷川豊さんが、いろいろと日本を変えるために、政策を打ち出してこのあいだの衆議院選挙に千葉から出ていたらしい。それは構わないのだ。彼の動画を昨日見た。とても良かった。しかし、簡単に殺せだの死ねだの言わないほうがいい。確かに、病人を減らせば医療費を削減できるだろう。しかし、それでは本末転倒ではないか。思うのだが、医療費自体を安くしちまえばいいんだと思う。なぜなら、ある程度医者は確保できたではないか。何故医者に高額の診断料を払わなくちゃならないんだ。医療の世界でももっとコスパが良くなればいい話だ。看護婦が大変というが、それだけの給料をやらなくちゃ誰も面倒をみないという世界もおかしいのだ。いろいろ入りやすくして、病院を大きくすればいい。とにかく、あまり医者にはかからないことに越したことはない。医者という人柄をそう誇示する必要もない。病気でもなければ、何の用もないんだから。医者が嫌いというわけじゃないが、世の中の風潮として医者に従っておけば、悪いことはない等ながれがあるような気がしたからだ。たぶん、世の中を元気にするには、自分が元気であればいいように思うのだ。長谷川豊氏の動画は、確かに言葉は悪いし行っていることも理路整然であるけれども、それをいっちゃおしまいよ、というところがある。しかし、彼はもっとちゃんとした現実的な妄想に従ってそれを実現するだけのいっちゃった脳みそをおもちですから、何か、劇場で漫談をすると本当に受けると思うのだ。それくらいしか思いつかない。

 かくもわけのわからないことを脳みそは受け入れる。私は自分が考えるよりも先に自分の気持ちを表す訓練をしなくちゃならない。何かを考えるときにすぐに没頭しなくちゃならない。それは、仕事でもきっと役に立つだろう、としたをすりすりして唇の周りをなめなめしているのだが、あまり、期待できない。というのも、私が破綻しているからだ。私はもっとハイにならなくちゃというプレッシャーもあるけれども、ハイがきついのもよくわかっているので、あまりハイになりたくない。なろうと思えば、なれるのだ。そこが面白いとこである。突然怒りが湧いてくる人は、自分をコントロールできないのだ。私はたまに、なぜ他の人なら嫌な顔をする場面で自分は平気でいられるのかわからない時がある。それは、わたしはあらゆる経験がいろいろな諦めの元に動いているせいもあるかもしれない。おそらくそれしか、思いつかないのだが、もう一つ思うのは、やはり自ら文字を起こすことでその状況を楽しめるところもあるかもしれない。笑い転げたり、またもう一度そのような、人が嫌な気持ちになるような状況に居合わせた糸はちっとも思わないが、おそらく、私のイライラポイントは、私の速度を邪魔されたときにあるように思われる。例えば、前に遅い車がいるとき、私は自分をぐっとこらえる快感に酔いしれる。自分が思っていたスピードではない速度を強制されるのだから、相当に私は自分の心のアクセルとブレーキを抑えているのだ。節度は、ある程度人間に快感を与える。ある程度の快感がいいのであって、度を越すと、酒を飲みすぎて路上にへたり込みゲロを吐き散らすように、気持ち悪さが増して快感を受け付けないようになるのだ。ほどほどがとてもいいのだけれども、それを肯定する気持ちの意味のわからなさは格別だ。決して書物は伝えるためだけに描かれるのではないし、書物は私の場合自分の考えを明らかにするところにある。なぜ書いているのか問われるとき。私の体調を良くするためだとなぜ思わないのかいつも不思議なのだ。私にとって書くというのは喜びそのものであり、それを他人に見られるのは少し恥ずかしいけれども、どこか嬉しいのだ。その気持ちを忘れないでいるのはとても難しく、ときには暴走してつまらないことを永遠と考えて、でも、長く、出来るだけ長い文章を書こうとしているのだから、とてもじゃないが普通の人じゃこんな退屈なことを続けられないように思うのだ。しかし、見た景色等を自分が文字にするのはとても心が落ち着く作業であるのもまた同じだ。私の場合は、文章が綺麗なわけではなく、どこかもどかしさがある。いきなり飛躍することもあれば、詳細に書きすぎて、行き先を忘れてしまうことがある。近頃の私は、どうも記憶力が怠けてしまってちっとも名前を覚えないのだ。シシドカフカが、きのう私がみた新しい名前である。なんでもいいので、名前を文字にするのがいいように思われる。しかし、なんでも考えているとイライラするのもまたそうだ。相手の気持ちがわかったつもりになって、相手の怒りを自分に転移させるのの文字は有効なツールだ。相手からダウンロードする際は是非文字に起こしてみるといい。しかし、文字にしないことでダウンロードを免れることからしてみれば、こちらに、削除のツールがない限り難しいかもしれない、ダウンロードするということは。

どうやら書きすぎてしまったようだ。私は内部でだいぶ言葉を抑制しているのだろう。自由に言葉を発せないでいるのは苦痛だ。周囲の事物を、新しく見るために、また、従うために沈黙を強いられているのだ。沈黙も、実は悪くない。沈黙は、素敵である。言葉というのは、酒のようなものかもしれない。あまり、飲みすぎると酔わなくなるし、飲まないではいられない。言葉で人が動く快感を身につければ、言葉から離れることはないだろう。言葉でモノを考えるのもアリかもしれない。私は言葉で思考するのが楽しいのだ。だから、ある人の意見が完璧であるようには思わない。支持するなんてこともなくなってしまう。政治で世の中が変えられないほうが、小さな政府と言えるではないか。だからといって、政治をするためだけに食事会は宴会を開くのは最も恥ずべきことだが、こんな単純な倫理も、今は口先だけの人間が非常に増えたのでダメになってしまった。ダメならそれでいい。失敗と認識すのならば。それを延期ばかりしているではないか。それをどう言い訳するのか。私の状況に非常に良く似ている。もしかしたら、人間は自分の置かれた生理状態を分析に使ってはいないだろうか。だから、ある人の価値観は彼の服従の精神と、そして、彼のしたがう倫理観に属しているのだ。