アウトプット

相手の視点に立ってみよう

青空の昼下がりに、線路沿いで。

 

「ご気分は?」

「ええ、結構です」

「といいますと」

「いい気持ちです」

「温泉でもはいられた?」

「いえ」

 

ある朝、起きたら胃さんに苦しめられた。

 

 太宰が、志賀直哉をボロクソに老人呼ばわりして殴りかかっていた。素晴らしい。作品をけなされて、頭に血が上ったのだろう。太宰は、執念深い。良くも深い。キリストに傾倒している。「汝、自己を愛するがごとく隣人を愛せ」が合言葉だ。

 どうも、僕の言葉は心に響かない。心をシャットダウンしているからに他ならない。豊かな心を持つべきた。自分の精神を開放するべきだ。昨今はあまりにもお行儀良く社会が回りすぎている。慇懃無礼ばかりだ。快活な笑いを最近しただろうか。どこか苦渋に満ちた、卑下に満ちた笑が多くないか。量の問題ではない。皆、言いたいことを言えないでいる。それは、「資格」がないからだと本人たちは思っている。根底的に、社会の奴隷根性を賛美している。働かざるもの食うべからず。そういう輩は、魂を売ってしまったのだ。彼らに、言葉はない。魂はあるだろうが、非常に排他的だ。日本人の多くは、他人に興味がなく甘えん坊で冒険を好まない。成績優秀で、立ち振る舞いが上手、自分の意見を言うよりも相手の意見を尊重し、問題が起きれば相手のせいにする。賢くない。ただ、ずるいだけだ。それに、鼻につく男も女も増えてきた。自分が一番だと思っている。服装だけじゃない。精神が、悪い。余裕がない。時間で給料を稼ぐことしか興味がないのか。嘆いてもいいだろうか。お笑い芸人なら遊んでも許されるのか。哲学的問題を云々するだけが唯一世間の許すまっとうな悩みの道なのだろうか。

 太宰は「弱くなれ、もっと悩め」と喝破した。まるで禅僧だ。非常に純粋だ。それゆえに、酒にも染まる。兄に、フランス行きを提案された、金も出すらしい。しかし、文学の基礎をわきまえてからいく兄に返事をした。本当は、女と離れたくなかったのだ。女の、金のない生活のほうが大事に思われたらしいのだ。どこか、貧しさに寄り添う英雄気取りも太宰にはある。例えば、ジョンレノンも太宰治とどこか似ている。それは、金と物よりも精神に重きを置いたのだろう。金とモノを感じるのも精神だ。貧しさには寄り添うも、世間を徹底的に嫌った。太宰は、神になりたかったのか。彼は、実家が金持ちであるが自分は稼げないことに引け目を感じて、価値の大転換をはかり貧しさこそ幸福であると自分を生き長らえさせたのかもしれない。そんな太宰にとっては、女を裏切るのは最も苦痛だったに違いない。守れないと、落ち込む太宰は、女とともに玉川上水とやらに飛び込んだ。

 翻って、現代である。テレビはある、食べ物もある。安い物件もあれば、働き口もある。贅沢はできなくても、インターネットで暇を弄べる。皆が世間様になった。だれも、世間から逃れようとも思わないでぬくぬくと生きている。それで構わない。構わない。ただ、どこか納得がいかない。私は、誰よりも不幸だとも思わない、また、誰かを不幸だとも思わない。かといって、幸福かと思えば、確かに幸福だ。路頭に迷っているひなびた服きたおじさんをみると、嫌な気持ちになるくらいだ。それも、明日はわが身という言葉と、自分は優しいと思い込んでいるのに、人を選んで、ちっとも優しくないからだ。都合の良い人間を周りに配置する。そうすれば、自分はちっとも傷つかなくてすむ。太宰は、弱くなれと言った。弱くなくては、弱さの美しさもわからない。そんな美しさをどうでもいいと思うなかれ。太宰は今生きていれば、どこにかれは悲しみをみつけるだろう。美しい悲しみを。いま、街には、楽しい顔ばかりが溢れている。彼らの嘆きは家に持ち越される。外には出ない。インターネットに転がり込んでいる。ネットさえ、近頃は日向に出される。何もかもが明らかなようにみえる。外に出れば、幾多の人がいる。