日本語をやめよう。すべての言語の垣根を越えたらどうだい。日本を出発点にすればいい。インドネシアも、スペインも、サンスクリットも、日本語の中で考えればいい。否、それ以前に、私に付随しているものだ。男は垣根を作りたがる。土地を主張したがる。だから、知識は横に繋がらない。自己完結するか、枠のなかで互いに戯れ合うだけなのだ。だから、新しい風は吹かない。吹いて欲しくもない。自分たちが先人のように生きられたら、それが不幸でもいい、戦争を起こした世代であれば、リベンジを心にかけているのかもしれない。もっとも、戦争で日本兵はガリガリに痩せて東南アジアでしかばねとなってしまったのだが。女は、いいね。横につながるから、ネットワークが楽しい。今を生きている。未来は、男の財布を性的な魅力でうまく釣られればいいのだから。それに、そうだね、どこまでも枠がないから、応用が効くと思うんだ。男の真似をして、やり方だとかにこだわらないほうがいい。男のこだわりは、まずもって、こだわりであり執着であり儀式でしかないので、本質はどこにもない。男は、女を通して自分の本質のなさにいたるのではないだろうか。女を通じて男は自分を忘れ、自分から離れ、ちっぽけでつまらない男という自分に課せられた世の中の様々な義務と偏見である、男が稼ぎ、女はか弱く、男が女を守り、女は男に従うべきだという、ある人たちに受けつがれてきた一部の慣習を絶対視して自分の教条にしていきるつまらない考えから、いかに逃れるべきかを考えるほうが、よほど、気が利いている。女は、好きなように生きられる。男は、そうはいかない。いろんなルールを敏感に感じ取りながら、それに沿った生き方しか想像できない男にとっては世の中は閉塞的であるし、暗く、どうしようもなく救いがないのだ。だから、男を捨てるべきだ。人間を捨てるのもアリかもしれない。意地はけっして、見栄とはちがうだろう。見栄で男は女に許されるのだ。君を守るだけの用意と準備はしている、ただ、足りないのは君を脅かす何かであるし、君を本当に守ろうとする意志だ。浮気に走る男がいる。大事な女を守るだけの余裕を他の女の救済に当てようというのだ。馬鹿な話だ。男は女を守るだろう。しかし、女は男を平気で捨てもするだろう。二度も捨てられたい男の気持ちは、嗜虐的だ。変態だ。だから、浮気する男がロクでもないのは、女に弱いからだ。文字通り。他の女をとりこにしないと、自分が男として大事な女と対峙できていないきがするのだ。男女について、話すのはちっとも面白くない。自分の人生について話すのはどうだろう。かつては、面白かった。わが心の流れを文章に書くのは、神秘的でさえあったのだけれども、こう、ふらふらしていると文章も完結せず風のようにあてもなく流れ着いて、どこかの川面にひらひら落ちる枯れ葉のようだ。ゆるやかに川のながれに、身をまかせるわけもなく、ただ、流されて、どこかの茂みに引っかかり、いつのまにか、枯れ葉は粉々になって胡散霧消するのだ。それが、人生だ。なにも、人生を特別視する必要はない。特別な人生は、つまらない人生である。