アウトプット

相手の視点に立ってみよう

根本的に文章で暴れたいのだ。そこらへんのバカは、記事に反応するだろう。たとえば、不倫しただとか。そして、不倫はいけないのだとか、不倫されないためにはどうすればいいのかとか、私も不倫されているかもだとか、俺の不倫がバレるかもしれないだとか、そういうことばかりやっているのが、メディアじゃないか。リニアモーターカー必要か?それよりも、将来かかるであろう東海道新幹線の線路の整備に金をかければいいんじゃなかろうか。リニアを作って大量に人を輸送できるようになるまでいったい、どれくらいの時間がひつようだろう。どうせ、山ばかりの道を走るのだ。何が楽しいのだ。1時間で名古屋について、それが自慢になるのか。それにたかって、建設会社は、自分たちが家を作れるからと言って、すこし、横柄になっても構わないと思っての談合事件だろう。まったく、そういうのが人間だとしたら、そして、そういう話に付き合わされる国民はたまったもんじゃない。トランプが大統領になって、それが普通の世界になった。つまり、トランプが大統領になっても、アメリカの政治は壊れやしないし、まして、アメリカという国なのかなんなのかよくわからないが、大統領がなにをしているのか、よくわかったのかもしれない。アメリカという国家が相手を利して自分もりすると考えていればいいけれども、日本にミサイルを売り込んで、戦争が起きたら自分たちで自分の国を守るんだよっと、言われ、アメリカが中国と連携して北朝鮮に日本を攻撃するように仕向ければ、日本はこれから自分たちでこのアホくさい金の周りに付き合わなければならなくなったのだ。欲望を肥大させ、いかに女と寝るのか、いかにかっこつけられるのかが、今の日本人のカンフル剤だ。それは、全人類に共通するかもしれない。そして、男に。せかいは、本当につまらない。そのつまらないのは、私の頭の中にある世界なのだ。てっていてきに、恬淡洒脱の自由闊達に筆をふるうのが、この文章のなかでいきるのにはもってこいの処世術のような気がしてならない。ほんとうのところ、特に言いたいことがない。魂がない。何か言いたい。これに我慢がならない。というのがない、もちろん、話しながら頭がハイになる時期もあった。しかし、その状態ばかりを追い求めていれば、世の中の周りのことい首を突っ込みすぎてしまう。あまりにつかれる。わたしの相棒はひどくふつうのひとで、わたしにとってなんでもないことをふつうに驚いたり、怖がったりするからそれがうつるのであろう。人のせいにしちゃいけない。人は自分というものの鏡だ。人は私だ。だから、けっきょくは自分のせいなのだ。だから、人のせいにして相手が変わるのを待つのは、自分の頭の上にあるメガネを永遠に探しているようなもの。だから、あいてがかわるのをまつよりも、まわりをよくみることだろうね。そして、じぶんから動く事。自分さえないということに気がつくべきなんだと思うんだ。じぶんは、どこにいるだろう。いないじゃないか。総合的に自分なのだ。どれひとつ、かわらないものはない。きのうおぼえたことも、きょうはわすれている。それなら、じぶんはおなじではない。では、きのうおぼえたこと、それをおぼえたのをじぶんというのか。そうじゃない。きおくも、なんども、いったりきたりしている。どこにも、かわらないものはない。寝ているときは夢を見て、夢は映像だから、とどまることをしらない。じぶんが家にいても、何かしらしているので、同じ事ばかり繰り返しているとしても、その動作は別の動作の組み合わせなのだし、その間に世界の状況は変わり、細胞は活動がおさまっていく。恒常的なわたしはないのだ。ありがてーはなしだ。じぶんからかわらなくても、かわろうとする意志、やる気をもたずとも、かってにかわっていくのだから。なんとも、ありがてーはなしだ。にんげんっていうのは、ありがたいな。