アウトプット

相手の視点に立ってみよう

 あくなき探究心は結構な事である。それは、ものへの執着といかほどにちがうのか。ある、女を好きだと言って隅から隅までついていくのと、どうちがうのであろうか。再生医療で、手足がなくなり、臓器も壊れ、目みえなくなっても、大丈夫だと安心できるようになるだろう。それに向けて、科学は進歩するのだ。そして、盲目になるのだ。いったい、何を見ているというのだろう。ざわめきにうなされるだけなのに。それでは、おまえは目をつぶせばいいじゃないか。そうだね、目を潰せばいいんだ。そうすれば、ざわめきがなくなるのならばね。前提として、目があってもなくてもざわめきとは関係ないのだ。目指すは、心の平安だろうか。それならば、目がなくてもいいはずだ。しかし、やはり綺麗なものを見たいきもちがある。綺麗だ綺麗だというが、近頃私は桜を見ても綺麗だと思わない。一週間もすれば散ってしまうから、潔くて綺麗だと思えないのだ。僕の感性が、おかしくなっている証拠だ。なんの自慢にもならない。自分の心がたくさんの規制を作って、じぶんを動けないようにしているのだ。まるで、だれかにしばられるくらいなら、自分で自分を縛っておきたいと思う気持ちとそっくりじゃないか。わたしはどうしても、他人が潜在的に嫌いなのであろう。そうじゃなくちゃ、こういう気持ちになれっこないだろう。そうだとも・・・。と、いいきかせても、頭から離れないのは、学校の教室であり、教師の顔である。そして、未だ見ぬ面接官にどうものを言おうかと思案する馬鹿げた私である。楽に生きようと思えば、生きられたであろう。しかし、それをしなかったのか、そういきるのができなかったのか、能力のあるなしであるよりも、そういう危機感がなかったのである。ところで、それは危機であろうか。いや、ちがうのである。