アウトプット

相手の視点に立ってみよう

思考空間

感覚に言葉を宿すのだ、と思い込んでいる。あまりに時代の空気を読みすぐると息苦しい。どうすれば、この架空世界から離れることができるだろう。君が、世界だと言っているのは、君の思い込みに支えられている。その人柱に僕は使われているんだ。君が偉いというときに、偉くない人がいる。金持ちも、美人も、ルサンチマンも。言葉にするのすら誤っているように思われる、自由。このふた文字に、”自由”が詰まっているとも思われない。どうすればいいのか、知らないけれどね。知らないと言って、何にもしないんじゃしんでいるのと一緒じゃん。死んでいたいのかいと、問いかけた時、うんと頷いてしまう。それって大丈夫なの?この辺で、あきらめるのが普通だ。どうすればいいのか。今の時代。金があれば、元気だ。そりゃそうだ。奪い合って、騙し合って、汚い汚いこの時代に、何が求められているのかと考える思考こそ、不自由だ。今の時代に、自由となるのは、拘束された人たちだ。彼らにとって自由とは、単なる休息を意味する。自由が休息と同意義で、悩むことがない。どうすればいいのか。怒りだとか、感情が芽生えてこないのだ。嬉しいは、感情ではなく展望である。ただ、怒りのみが感情ではないだろうか。形容詞が決して感情ではないようなのだ。言葉の分類に、思考は分類されるべきだろうか。もはや、相互のやり取りが不可能になる。しかし、幻想の言語空間で何を営むのか。噓いつわりを述べて、相手を喜ばせ欲望を植え付け目覚ませて、疲れ果てさせる。一時的な元気のために、それも刹那的な、のために飲むレッドブルとどう違うのだろう。そのあとにくる疲労感、肉体労働の後の充足感は君が生きてる。名誉も、クソもない。てめえはそういう労働がお似合いだってことだ。それさえ、どうでもいいことだ。白い砂浜に打ち寄せる波の夏の日、白い雲浮かぶ空に飛んでいく真っ赤な凧。誰も見ていないところで、私は半袖になって海に入って気がつけば、どこへ行くのだろう。そうだよね。解釈だよ。君がこの文章を読むだろう。そして、意味不明だと嘆き、バカにする。それが君自身なのさ。全ては君を映し出す鏡でしかないのだ。自然が生き生きとしていた頃、君と僕は自然からかけ離れたところに生きていたんだ。善悪の判断を捨てるのは非常に難しい、何故ならば、あまりにも簡単に物事を判断する手段だからだ。常識に訴え、経験に訴え、そして、判断する。正しさよりも、単純なる容易さがそこにはある。そして、正しさは便宜上、そういうものとされる。ものが見えてこない、そういう気分になるしかない。どこにも白けた空間が開けている。砂つぶがある。太陽に反射してギラギラに光る。噛んで見れば音がする。葉の削れる音。喉の渇きに快感を覚え、死を前に歓喜する人間たちの最後の言葉が、素晴らしい言葉であるのか、罵詈雑言に終わるのか。現代の子供達は、あまりにも価値観を持ちすぎている。必要がなく、消費のために作られた商用の価値観だ。捨ててしまえ。友達も、知り合いも、みんなお金に見える時、君は正常なのだ。友達だからといってお金はカスな。友達ならお金を貸してくれなんて言わない。キリストがやってきたら言ってやれ、そういうお前が金を貸せばいい。消費者金融はキリストが代わりにやってくれるんだから。

「愛はいつも ずっとこの思いを胸に alive」

 白い雲から垣間見られる光が、海を照らす。そこには何もなかった。綺麗なものでもなかった。ただ、それを描きたいと思ったわけでもない。女の子の顔が僕の前にある。花を持っている。歌っている。白けた、冬の枯れ草広がる河川敷にゴルフボールがある。ゴルフなんて死んでもやらない。大嫌いだ。あの服装が大嫌いだ。金持ちだとも思わない。ステータスのためにやる遊戯としても最低の部類に入る。クソジジイの散歩でしかない。頑固者はいい。それこそうわつきものの拠り所。