アウトプット

相手の視点に立ってみよう

 わけのわからないこと。説得こそが人を交えて自らもそこに現れるための存在の文章を作り出す動機である。説得こそが、人を人たらしめるのである。自分が、どう思うのかの感想だというのは「思う」と言わなくてもわかるのだ。本心は「私はすぐに意見を変えます。都合がわるければ」という情けない宣言だ。断定分にこそ私が宿る。決して「考えること」「思うこと」には、私は現れないし信じられない。道路の真ん中に落ちている紙くずに「君のことを愛している」と書かれているようなものだ。もっと覚醒するべきだ。そうでなくては前に進めない。文章だって、いい逃れるために姑息な手段を使うであろう。「そういうつもりでいったのではない」と、相手に媚び、相手が自分の意見を自分の考えるように受け取ってくれないことを嘆くのだ。文章の責任だという、退屈な話ではない。責任のない文章などない。人を殺しておいて、自分は殺していないと錯覚しているだけだ。その錯覚が「思う」だとか、「考える」だとかいう文章なのだ。文章は結局、どこに流れ着くのかわからない。ニューロンの働きを書き表しているに過ぎないのだ。脳みそにはあらゆる箇所がありそれぞれ別の仕事をしている。相手の感情を読み取ったり、目の前にある光や耳に聞こえる音を感じる仕事だ。他にも数々ある。間違いを恐れて物が言えないようでは、息苦しい。ちっとも前に進まない。下痢のような文章が巷に繁茂している。もしかしたら、そうかもしれないだとか、そうじゃないかもしれないだとか、そういう文章は、のらりくらりしていてうなぎのように手から滑り落ち読み終わった後何も残らない。小林秀雄は、神秘主義者だと言ってみたところで始まらない。世の人が神秘だというものを、小林は実態だとみたのだ。言葉はものであるということ林の信念があれば、世の人は言葉は実体を持たないただの記号にすぎないとしているのだ。

 根本的に私的な言語活動を展開するのは、相手を説得する上で全く優位に働かないが、私的言語活動なしに一体今を乗り越える力の芽生える箇所があるだろうか。あらゆる想像は、ある個人の孤独な営みから始まりそれに共感したものたちの爆発的な数の人たちの呑気な付和雷同で成り立っているのだ。今日の文化と呼ばれるとき頭に浮かぶ表現は、それは必ず昔は避けられていたものだ。そして、ある事実につまずく。あらゆる予想は、何ら説得力を持たなければ不毛になる。現実世界が幻想だとしても、これに耐えられる場合人間は非常な苦痛な状況の中に身を置いていると考えられる。私自身を説得できなければ決して他人を説得することはできない。自分で自分をいかに騙すのかが私の文章における展開において重要な動機と役割を担っている。全く人間は、というときあたかも私は自分が人間でないように話す。人間でない私は一体何もいのであるのかを問わず、現在人間的なとされている事柄の外から人間を考えると人間の可能性が広がる。俯瞰してみることで、伝統的なものの見方を脱することができる。いわゆる、伝統舞踊も、歌舞伎も、全くもって文化それ自体として成り立つかのようだが、歌舞伎の役者が内面をブログに披瀝するような時代に、歌舞伎の稽古をしている最中に思いを馳せたり、彼の中心的な活動である歌舞伎をいかに演じるかが彼の心を表すにもかかわらず、ブログに心境報告は全く必要のない無駄な機会である。余計なことをして女子供はたわいもなく喜ぶであろうが、男は決して喜ばない。もてもしない、勇気もない女が、同じライバルである女を出し抜き、勝つために、強い男を盾にするようなものだ。

 以上の文章は、全くの無駄である。金にもならない。しかし、生きていくためにどうしても必要な行為だ。創造的な世界を自己の内面に豊富に実らせるための行為だ。決して客観的な文章を書こうと努める必要はない。本人が客観的だと信じている文章ほど、全くの主観的な文章であるからだ。ある人が車に衝突して、痛みを覚えたとき、診断書をもらって内臓破裂と書かれてあるからと言って、それを聞いた人間の内臓は破裂しないのだ。全身が震えるほど痛み。死んだほうがマシだと思われたと書いたほうが内臓は破裂するのだ。同じ客観的な状況においても、人間各個人の置かれている環境は全く違っている。特に、精神的な傾向は個人によって違うので、物事を捉える見方も角度も度合いも違ってくる。人間は恐ろしく主観的だ。常に、絆を求める。人間的な絆のもたらすのは主観の抹消だ。燃え尽きることなく、積み重ねられていき、忘却とともに塵となって風に吹き飛ばされる。仏教は、その無常を解いた。神道は、塵を燃やして炎を尊んだ。キリストは、塵を分け与えてやれという。イスラムにおいては塵は塵である。ディレッタントであっても構わない。自覚があれば人間は常にディレッタントであるべきだ。自覚もなしに、知識を公認のごとく扱い捉える人間こそ唾棄されるべきだ。彼らは、人の考えを盗み自ら考えを熟成させることなく、飴玉ばかり製造し、子供年寄り女に食わせて、虫歯、入れ歯、糖尿病にしてしまう。全く、毒の抜かれた飴玉ほどまずいものはないのだが。

 実に文章を書くのは虚しい。第一に、誰の反応も返ってこないのだ。しかし、感想や反論をもらったところで、それに反論するしか能がないので、自分自身を否定したり肯定する運動を文章に取り入れ自らもそう行動するのが、他人の世話にもならずに文章を勢いよく進める豊作であろうに、近頃は一面的な情報への反応として自らの思考が自らを新境地に向かわせないので、他人に期待し天災に期待し、天変地異を必要とするような人間に成り下がってしまっているようだ。人間は本来孤独であると書いたとき、その自覚がどの程度なのか計り知れないが、孤独なる人間が他者と絆を持とうとするとき、自己を否定し新たな境地から文章を書いてみたというただそれだけのために、決して友人がいるから寂しくないのではなく、寂しくなっても大丈夫であるという安心感が芽生え、人間を一層堕落させる。友人の数はそれだけ人間を堕落させる。自分が変わる必要もなく、知識を得る必要もない、金と友人さあれば頭はぼけていても知識は誰かのを拝借すればいいのだ。発見することがないのは、考える必要性が本能的に刺激されるような追い詰められた箇所にないからだ。自分は全く弱さを利用して文章を書き、虫歯を埋めるように治療するので、恐怖とはほとんど無縁である。現代の人間が死を忘却しているのか、死を望んでいるので死を恐れなくなったのか私にはわからないが、死を動機に生を肯定するまでに、生を身近に感じたくはないのだ。生の隣には死が必ず居座っている。幸福になれば、死を恐れる。つまり、誰も幸福など掴みたくないのだ。幸福になっても、自分は死を恐れることがないであろう、何故ならば、生には十分に飽きている、また、幸福は別の形をして現れ不幸な境遇を幸福と捉えることも解釈できるのだ、一般的な観念の説得力ある文章を持っているわけではないが、それに賛同するかしないかという判断に迫られ、日本人ならば必ず、周囲を見渡し自分を滅して周りに合わせる。それは弱さからくる恐れの滅し方であるし、勇気を使わずし勇気あるように見せる豊作でもある。本質的にいい人であるというのは、形式的にもそうであるように。本質は、形式に劣るのである。ただ、本質は、常に純粋である。一番信じられるのは純粋であるが、求めているの形式なのだ。何故ならば、形式は顔である。顔が悪ければ、そもそも近寄りもしない。人間の顔をしていないのなら尚更だ。まず、入り口に立ち通路を保つために形式は役に立つが、その先は続かないであろう。続けるためには、本質が必要である。本質は、量であり、形式は、質である。いくら、質の良いイクラを食べても一つだけじゃ寿司にもならない、丼にもならない。