アウトプット

相手の視点に立ってみよう

 世の中の不満をここにぶちまけても何にもならないブラックホールに吸い込まれていくのはわかっているつもりだけれども、やめられないのはお酒のような快感とも言えない一種の依存性があるのだろう。依存している限りは精神は安定を保たれるのであるから、人間という動物はある種の決まったパターンの反応を起こさなければ飽きてしまって他に同じようなパターンの反応を求めようとすれば社会性のある人間となるが、同じ対象から同じパターンを要求するようになったり、対象に合わせて自分も変化するのであれば、一貫性のある人物ではあるだろうが、社交性に欠けるという評価になるのである。しかし世の中の社会性なるものはちっとも役に立たず、世のものが言えない考えられない場kたちに支えられた沈黙の力によって立つので、いつまでも自分の言いたいことを社会の言いたいこととすり替えて自らを欺いて過ごさなくてはならず、ちっとも自分に対しての責任感が伴わないある種の嘘つきになり、それでいて金ははいるわ、人は喜ぶわで、感きわまる状況になるのだ。ちっとも、事故を分析しようだとも思わないし、最近は、無意識なるものがあったからといってなんだというのだと思いたいくらいなのだが、つまりは、今意識的にやっ営る事柄が無意識からの要請に応える形でなされている限りは安定を保つというのであろう。疲れた、と口にする人がいかに不誠実であるのかは、自分は十分に満足しているのにもかかわらずそれ以上に疲れたという言葉を利用してさらなる快感を得ようとしているところにいやらしさがあるのだ。疲れているのなら、黙っていればいいのだし、一人で休めばいいのだ疲れているのに酒を飲んで誰かとしゃべっても余計に疲れるだけなの、要するに疲れたいだけなのだから、好きにやって貰えばいい。私は人間関係がうまくいくときは、事故をいつ割れるときであると確信している。自分に正直であり、自分を見失わず本当に好きなものと一緒に過ごすためには、社交性は不要である。また、近頃の複雑な世の中のシステムに阿鼻叫喚して儲けよう謎と思うような複雑な精神は、精神の停滞をもたらし、ひいては、最終的に毎秒毎に地獄が待っているのだから、何も羨望することも尊敬することもない。無駄なものを買って、それを喜び、その喜びはゴミを集めるホームレスと同じくらいの欲求でしかないと言い放ちながら心の中では、無意識という絶対的に侵入を許しあるいは侵入を許す他社の独壇場において、君の軽蔑は君が得られないものを手にしたものへの嫉妬であり、君自身もそれを所有したいと欲しているにもかかわらずそれができないので、すっぱい葡萄だと決めつけて葡萄を取る努力を怠った賢い狐と同様に、自らの欲望に対して淡白なんだと、いったいそこまで誰が考えるだろうか。本心にもないことを言うのは気持ちがいいものだ、何故ならば、そこには社会的に認められた慣習である言動が備わっているので社会の一員ひいては、社会を代表する何か偉い人間になったつもりになることができるのだ。これは非常に面白い話であるけれども、なんの証拠も実証もないのだ。根拠は私のこの脳みその弾き出すてのリズムである、手淫がなぜ気持ちいのかを解明するよりも先に、手淫は気持ちいいのだから、何か科学的な説明である分泌物であるとか摩擦係数だとか必要であるだろうか。数学のできる人間が世の中を数学にまとめてしまいたいと思う欲求と、二次元に還元して絵を描いて満足して現実世界を多角的にではなく非常に限定的に見て安心する態度に非常によく似ている。現実はあまりにも人々の多角的な視点によりいくつものパラレルワールドが既に存在しているのだ。その世界においてあんたの存在は宇宙であろう。俺が死んだら、世界は続くだろうか。そうだとしたらやりきれないだろうか、死んだ後いい世の中になってくれという気持ちを持っている人間もいるだろう。その人間は幸せである。何故ならば、その人間は自らが落ち込んでも別の世界に逃げられるのだ。避難先を確保しておくのは人生において非常に大事なことで、自殺するのは、避難先がなかった結果である。そして、避難先は自らの価値観の数の多さによるのも確かなのだ。ある意味、一つの価値観を信奉していれば、それで少しはプロフェッショナルを気取れるだろう。お金も手に入るだろうし、それで生活もやっていけるが、いかんせんかねを使えばなんとかなると思っているので、お金に固執するだろうし、お金を信奉しケチの吝嗇家で気持ちに余裕がなく、法律の外で互いに固く結び合っているのかもしれないが、お金の外で結び合うことはないだろう。宮台真司が最近は法律の外での繋がりを云々かんたらいうているが、より現実的にお金がそこに現れてくるのだから、お金による繋がりの人間関係というもののなかに全く厳然に現れるルールを重視するとすれば、古代奴隷制社会が垣間見られる。古代の奴隷は、決して漢字から想像される悲惨さよりも、仲間といった感じに近いのだ。つまりは、奴隷という漢字は当時の現実を反映するよりも、心を反映しており主人が死ねば奴隷はまた安く売られていくという不安に根ざしている。もちろん、主人より早く死んだ奴隷もいるだろうが、究極自分は奴隷でもなんでもないのでその気持ちはちっともわからない。わからないことがたくさんあったほうが気が楽であるし、物事を柔らかく見るという、これまた、一つのテーゼを私はここに書いてしまったのであるが、ある意味で、視点を持たなければ話すこともなく、そして、仲間であるか否か、気があうのかそうではないのかという話になるが、気があうからといってその人と一緒にいれば疲れないかといえばそうでもなく、人は容易に相手に表面的に合わせる口だけ持つ人間がいるので、ちっとも言葉は信用ならない。ただ、その人の行動にだけは信用がおけるであろう。いくらうまいことを言ったとしても、それで評価されるわけではないのだし、また、評価を求めてする行動も浅ましいのだから、つまりは、自分が損することをわかってする行動こそがもっとも誠実なのである。それを知らずに、社会は回っているのだし、疲れ果てた人間はすぐに食べ物を欲するように、もはや、現代は、ただ、決められた事柄を淡々とこなすことに力点が置かれて、ちっともどうやってものができるのかもしれない、世の中の身近なことについて一番忘れられている。経済システムという思想だけが、人々の関心の的になって、みかんの色さえ、3秒とも見ることができない。人間は一体、なぜこうも、実態でない関係性にしか興味がないのであろうか。関係性だけが、唯一の社会的な生き方の一つだ。