アウトプット

相手の視点に立ってみよう

感性の話

 小さい時から胸がざわめくことが嫌いだった。新しい世界への扉に興味はなく、冒険は周囲の話す漫画から掠め取ってような甘っちょろい嘘じゃ気が済まなかった。本当の冒険は近所の田んぼを自転車で走ること。いくらページをめくって世界の海の果てまで行ってもそこにあるのは、人間関係。誰が好きだとか、嫌いだとか。新しい発見への思い、絆、共感。以上のことに興味を全く示さないのが私であるという確信が少しできた。まずもって他人に興味を合わせるのが無理なわけではない。ウェルカムだ。相手はそれでペラペラとしゃべってくれる。それは本当に嬉しいことなのだ。喋りすぎても大丈夫だ。しかし、反応を求められすぎるのが疲れる。ぼやきはいい。自己閉鎖的だから。何も言わなくてもいいくらいのことをぼやく。声は小さくボソボソとしゃべらなくちゃならない。嫌いなのは、ハキハキ喋るバカだ。自分が快活なやつだと自惚れている。加えて、恐怖と不安がある。人と比べることはしない。どうでもいい。自惚れていようが、落ち込んでいようが、それが自分勝手の結果だからでもなく、それに酔いしれいているからでもなく、それに関わりたくないという方が近い。あ、うん。の呼吸で通じない相手を説得させるだけの取ろうと努力をして相手が変わっても結局は一時的なものに他ならず相手の興味関心の対象を絞るくらいだ。考え方までは変わらない。とはいうものの、対象が変われば見方も変わり考えも変わるだろう。すこしはね。はや、考えすぎるのは病気だから、やめにして、日本語がいかにして紡がれていくのだろうかと考えている方がよほどいい。どのように感情表現すればいいのだろうかとか、恋愛相談だとか、結局は、相手のことを知らないから、相手を正座に落とし込んで牡羊座であるならば、牡羊座の性格的傾向を彼に当てはめて、彼を理解しようと努めているにすぎない。そのうちにその見解が、現実になるのも、その占いに書かれた内容を引き出すような行動を私がするからであり、結局は占いは、当たる当たらないではなく、励ますものであるという見解、人間は多くの見解を持ち、結局は何にもならない。どうすればいいのだろうか。わからない。歴史は人間の道しるべとはならず、人間の思考の痕跡の発見である。過去から今まで変わることなく同じような考えを、別の対象に向けて発散しているにすぎないのだ。人々は意識を保とうと必死になる。ああ、そうすれば好きなことが心から楽しめると思っているがそうではない。腹が減って飯を食べても美味しくないという状態に近いであろう、現代は。本当の喜びが苦しみの先にあるのを避けて通れば喜びも悲しみもない。それこそ、究極であるし、ブッタの目指した境地であったのではないだろうか。私にはブッタを語る資格もないのでくだらないおしゃべりはこの辺にしてさよならしたいと思う。つまり、自分が一番自分の文章を読むのであるから、自分が読みたいことを書くのか、それとも、自分が人からどう意識されているのかを自分がどう意識しているのかを考えた文章しかないのだ。つまりは、そういうことだ。自己だとか、どうでもいい。それよりも、自己を忘れているときの方がよほど私だ。だから、今の環境は良くない。自己を捨て自己を忘れよ。