アウトプット

相手の視点に立ってみよう

 たいてい、僕の話は役に立たないから。だーれもきかないわけだ。話のつまらなさを私が一番理解しているので、絶望しているのだ。自分の頭の中にある秩序に従って文章を書こうとすれば必ず行き詰まる。文章は熱情のうちに出来上がるものである。決して計画的に何を書こうかなぞと考えてみても、一向にまともな文章は作られない。だから、何も考えないで打ち込んだ文章が良しとされる。もしもこれが法律文章であるのならば書くのは非常に容易なのだ。相手のが突っ込んでくるであろう批判を先取りして、書いていけば結構な文章になるのだから。法律文章についてそう悩むことはない。しかし、自由に何か書けと言われるのは非常に苦しいのだ。何も書けないでいると私が存在していないような気がするからだ。とはいっても、私は一向に自分が存在していなくても構わないような人間だから、何も書けなくてもそれでいいと思っている。だから、私は、書きたいから書いているのではなく書くことに喜びを感じているのでもなく、書くことは思考の場所だと考えている。ここは常に、清書を書く場所ではなくアイディアもしくは思考する場所なのだ。つまりは、天下一武道会であって、その結果表ではないのだ。もちろん、他人に読まれるためにはある一定の読み手に都合の良い文字を並べてしまえば、読み手も流し読みするだろうが、結局はトイレに行っている間に忘れてしまうような代物なのだ。何にも心に残ることはないだろう。空を見て晴れている。ネットで記事を検索してもやはり晴れている。ああ、晴れている。そう言った感じだ。現代人は自分の感覚を信じられないでいる。特に、直感が失われている。あれをすればこうなる。そう言った秩序や常識に臆病になっている。常識を疑うことなく受け入れるのが素晴らしいと考えている。全くその通りに、素晴らしいのだ。ルールを守れるのが素晴らしいと考えられるくらい幼稚なのは非常に残念なのだが。例えば、交通規則がある。なぜ、この交通規則なのか。なぜ、この法律はあるのか。考えることもないだろう。だから、非常に幼稚なのである。だから、犯罪に巻き込まれた時に冤罪が増えるのだろう。今の時代の若者は、議論しない。全くだ。そうだね。それだけ言っておけば、どれだけの退屈な場面で退屈な時間を過ごせることだろうか!別に、私自身は友人と楽しもうとは一向に思わない!私の趣味は完全に私自身で成り立っているからだ!私の趣味をビジネスに直接的につなげようとは一向に思わない。そういうのは、嫌いだ。今、鎌倉に興味がある。鎌倉の寺に興味がある。あの雰囲気は血の匂いがする。幾千の兵士の血が岩に染み込んで土色に乾いている。坊主は読経をあげ、寺の屋根の燃える匂いを嗅いで線香をも香ったであろう。つまりは、人生は短い。君がしたいことをしろ。これに、理由はない。君のしたいことは、これこれだから、私はこれをする。それでもいけないのだ。人生は決して君が計画したように進まない。進んだとすれば計画が進んだのであって、人生は一向に始まっていないのだ。最後にひとこと。ざまみろ!