アウトプット

相手の視点に立ってみよう

性懲りも無くここにきては何かクソをして帰るというお便所な場所になっているこのサイトも、コンテンツブロッカーを使ってはてな記事のおすすめ欄を見れなくしているので、前よりもきれいなお便所になったんじゃないのかなと、個人的にはですが、思っております。個人的には、と言いますと、自分だけがそう思っているのかもしれませんが、もしかしたら、あなたも私の話を聞いて気が変わるかもしれませんというニュアンスがありますが、果たしてそう読み手は、こちらの期待に応えてくれるのでしょうか。期待というものは裏切られるのが常ですから、もしくは、相手をガチガチに束縛して奴隷根性を養わせるのにはもってこいの言葉ですから、私は期待という言葉を使いたくはないのですが、ここに来るような人はいませんので、忌憚なく、期待という言葉を使わせてもらいたいと存じ上げます。意味について、今日は話したと思いました。別段、何を話すかについてちっとも考えておりませんから、主題は突然決まるのです。みなさんは意味のないことが大嫌いですね。毎日校庭を走ることに何の意味があるのか。体力をつけて何の意味あるのか。もっと楽な方法はないのか。この方法は嫌だ。意味があるのか、という問いは、だいたいは、その意味を知っているといううぬぼれにすぎないわけですので、うぬぼれているような人間はすぐに意味を探ってそれが自分という価値ある存在にどれだけの満足感を与えてくれるのかという、まさに、自己を最大限に卑下した気持ちから意味を求める気持ちが起こるのでしょう。なぜ、うぬぼれが自己の最大限の卑下なのか。自惚れる理由は自らがうぬぼれていないことから起こるのではないでしょうか。ないものを欲しがるのでしょうから、普段から満足しておらず意味もないようなことばかりして自分に不満だらけの人間が、うぬぼれたいという気持ちを持って意味を期待するわけですので、意味があるのでしょうかと問われた時は、意味などないともうしたほうがよほど相手も安心するものなのではないでしょうか。だからといって、日常の会話において、意味のない会話などないと言われなければなりません。意味があるのならば、それは既に知られたものである。なぜならば、宇宙人の作った得体の知れない謎の光に意味があるでしょうか。推測するでしょう。いかなるメッセージがあるのだろうか。もしかしたら、間違えて緊急用の非常ベルを鳴らした時に自動できに出た光かもしれない。地上を照らすつもりが、UFOの存在を地球人に知られてはならぬという宇宙船の船長からの通達で光の照射をすぐにやめただけなのかもしれません。つまりは、世の人たちの中に確固とした意味体型がありまして、それに付随する慣習的な所作の中に意味があるわけです。例えば、自分を追い越した車の前に出て中指を運転手に見せる行為。これには立派な意味があります。怒りの感情でしょうか、それとも、中指長さ自慢でしょうか。俺の夜のテクニックには目をみはるものがあるんだぜという、自慢でしょうか。そう考えている私は、意味体型からある程度自由です。しかし、大抵の人は不快に思う行為でありましょう。もしかすれば、場面によれば私は意味体型の奴隷であったり、慣れているので奴隷でなかったりするものです。それを言っちゃおしまいよ的な、ものの言い方ですので、非常に抽象的にもなります。部分的には、というお話に縮んでしまいました。実に悲しいことでございます。瞬間しか存在しません。今あなたは未来について考えました。今から何時にスーパーに行けば、あの人の帰ってくる時間に間に合うだろうか。ちゃんと料理をしなければ、嫌われてしまう。そして、料理をするのが愛だと。愛は語るものではなく、愛するものだと。誰が言ったか忘れたが、いい言葉だと思うので、皆さんにももちろんそれを実践していただきたく思い書かせていただいております。という具合に、未来は永遠にこないのであるし、過去は既にビックバンが起こったのと同じように変えられないのですが、例えば、間違ってクソというメッセージを恋人に送ったとした場合にそのメッセージが既読になる前に消去できるとするならば、過去を変えたことにならないでしょうか。もし、恋人がクソのメッセージを読んだら嫌な気持ちがした。それを未然に防いだ。つまり、クソいうメッセージを送って放置しておけば当然生じたはずの恋人の怒りを、自分の過去の行為がもたらす当然の結果を防いだとするならば、それは、過去を変えたことになるのでしょうか。しかし、もし、クソいうメッセージをそもそも送信しなければ、過去を変える必要もなかったわけです。クソいうメッセージを恋人に送信した際に、当然もたらすとされた結果は、不法行為によってもたらされたわけです。クソというメッセージを、恋人が読めたが、恋人が読む前にそれを消して、無事に怒りの感情を恋人に抱かせることもなく、今日も難なく恋人を抱くことができたわけです。原因となる行為には、一つの結果のみ宿らないということでしょう。花の種を植えても、水をやらなければ枯れるでしょうが、水をやらなくても庭に置いとけば、自然の雨でもしかすると花を咲かせるかもしれません。それと同じで、子供も確かに美男美女の間に生まれる子供は美男美女でしょうが、心までそうとは限りません。心のない人が人間でしょうか。心は別に、汚くもきれいでもありませんが、苦しみに悶え続けていれば美男も美女もやつれもしましょう。苦しみも捨て去れば、ブスもブサイクも生き生きと見えるものです。心の目というのがなくなりますと、嘘つきさえ昼間の論理を歩き回れます。ああ、もうこんな時間です。今日はここまで。