アウトプット

相手の視点に立ってみよう

般若心経について

苫米地さんが般若心経は間違ってる、観自在菩薩はすべてを見渡せる悟りに近い人だぞ、それが、舎利子とかいう仏陀の弟子に仏教を説くのはおかしい、と。まず、仏陀ひとりが仏教を説いたのかって話で。そうじゃない。仏教ってのは、仏陀が説いたことも仏教だけど、なによりも仏陀は自分より偉い人がごまんといるのを悟った。前に何かなきゃ悟れないでしょ。曖昧だけど。仏陀の前に、あったんだよ。例えば、わかったという時、それはすでに考えられたことについて言っているわけでしょ。りんごは木から落ちる。だから、重力が考えられたわけじゃなくて、重力の存在に気がついたんだ。まあ、重力ってのも今よくわからないことになっているからね。仏陀の悟りを言葉にするのは難しい。陳腐だ。いけない。新興宗教的な怪しさがある。別に、好きなように考えればいいように思う。観自在菩薩がいっぱいいたわけだ。仏陀の周りに。その一人だよ仏陀も。そう考えると、別に、弟子に神が何を言おうとそれは、ありがてーものじゃないのかね。あと、色即是空に空即是色、これは間違ってるとはいうかもしれない。科学的には必ずそうだ。白黒つけなくちゃ。空とは何か。俺はわからない、いまだに空が何かわからない。空がわかれば悟ったようなもんだ。否、仏教はさらに人に空を説いて相手を先に成仏させることさえすすめている。そこまでしなくちゃダメだ。自分だけ悟ってもダメだというわけ。大乗仏教はね。まあ、ここまで書くと仏教ってのも人間臭い覇権争いの中繰り広げられる思想戦みたいな趣は、なんとなくあるね。実際に、なぜ仏教なのか。別にキリストでもいいじゃないか、という話になる。必ず。正直どっちでもいい。好きな方を選べばいい。それも仏教的な態度だから。いいも悪いも特にないのが仏教だ。白黒つけるために、どれだけ色を塗った食ったのか、人間が正確にものをみるとき、正確であるというのは、頭の狂った人間の大多数が正確といったものが正確なのか、それとも、あらゆるすべての時代の人間が納得する形が普遍的であるのならば、過去の人たちさえも説得できるようではなくちゃ、それは普遍的であるとは言えないんじゃないだろうか。過去の人たちは、なるほど、科学を知らない。ものの性質を観察して組み合わせ、現象を起こすのを知らない。確かに、そうかもしれない。科学が面白くないのは、科学ができるやつが嫌いだからであろう。冷たい感じがして近寄りがたい。話も、それが、本当か嘘かの裁判だ。科学をする人間は、どこか狡猾な印象がある。人間の意志をバカにしている風なところがある。所詮人間だ、という鬱屈も垣間見られる。要するに元気がない。そして、アプリを作る。それが流行る。そんなの科学でもない。他人の研究を足がかりに自分が仮説を作る。その仮説を思いついたのが、科学的な普遍的なものからならば、科学はなぜ生まれたのか。ちなみに、生きていれば皆、科学者であり、皆、コメンテーターであり、皆が修行者なわけだ。なぜ、私は科学者ですとかいわなくちゃならないのか。私は科学者ですから少々基地外じみたことを言うかもしれませんけれどもね、それは私が科学者であるから皆様の「科学者は気が狂っているようだ」というご期待に添いましてそれを演じているだけでありますので、皆様どうか私は本音をしゃべっているとは思わないでいただきたい。そこまで、相手に理解していただくために科学者と名乗るのだ。だいたい、すべて自分が何者であるのか、それを語るのが嫌いだ。自分は、何々だ。結構。それで君は自由を得る。先生なら、先生風な。医者なら、医者風な。もっとも世界のすべての現象を一人で調べることはできない。だから、大勢で集まってそれぞれ役割を果たし生きていこう。医者の言うことは、体について正しい。科学者の言うことは、科学について正しい。じゃ、医者の言う人生は正しいのか、科学者の語る人生は正しいのか、それは社会的な役割であろうか。肉体労働者のかたる人生は間違っているのか。陳腐で情けない負け犬の人生であろうか。社会というのは相互の契約で成り立っているのかもしれない。目の前で人が倒れている、それを助ける契約はないから助けなくてもいいだろう。誰が浮浪者を助けようと今思う?医者は医者として契約しているわけで、それ以外の人生についてなんら語る資格はないのなら、肉体労働者の人生さえ語る資格はない。つまりは、人生について話しているとき、その話をきいてやるってのが大事なわけで、内容なんてどうでもいいのだ。相手の人生について涙を流す。それは君が優しいからだ。契約の外で優しさを持ち生きるのは難しい。難しいことをしている君は素晴らしい。さて、君とは私のことだ。すべての人間は自己を理解するためにうなされている。いろんな勉強に狂ったり、おしゃべりになったり、すべては、苦に苛まれている人たちの症状である。病である。ああ、自分の人生はなんてつまらないんだと、こう考えるのも自由だ、面白いと考えるのも自由だ。その自由の選択は、私にある。自由を決定するのは、周囲の環境ではなく、周囲の環境さえ吹き飛ばすような自己犠牲である。自分はパイロットになる、そのために訓練するが、未熟な操縦ゆえ死ぬかもしれない、自分を死にかける。それが、生きるということだ。生きるために、保険をかけたりするのは、生きているということではない。未来の苦悩について悩み、来るべき病について悩む、神経質さに、今度は自分が悩まされる。そして、虚像を作り始める。保険に入ってるから、万が一の時でも大丈夫!ガンで胃を摘出されて何が大丈夫だって話だ。食事もろくにできない。元気も出ない。でも、癌摘出はできた。保険が下りたからね。よかったよかった。とは、ならんだろう。保険がそんなに大事か?保険よりも酒を飲まないことだろう。なに、俺は保険に入ってる肝臓が死んでも保険が下りて医者が治すさ。人の世話になるのが嫌だから保険に入る、結構なことだ、それで、酒びたりの生活に肝臓は悲鳴をあげ壊れた。さて、保険がおりる。手術をすることになった。医者に迷惑じゃないか。看護婦にも迷惑じゃないか。何、それが仕事だろう。迷惑をかけられるのが仕事なんだ、というのだろうか。あほらしいったらありゃしないね。仕事がない、大変だ、結婚もできない、さてどうする。落ち込む。馬鹿らしい。自由じゃねえか。平日は人も少ない。旅にでも出りゃいい。人は少ない、旅費も安い。旅好きにまともな職業はいねーな。まともな職業なんてのも、大勢の妄想の中で構築されている虚像だからね。バカらしいよ。いたってバカらしい。人生は大事に見るのはバカらしいが、甘く見ていると足もをすくわれるってさ。いいご身分だね、俺は何と言っても樋口一葉が好きだね。彼女が大好きだ。一体どうして自分の能力を過信できるんだろう。意味がわからない。自分に自信がある。それは周囲をバカにする態度から来るのは必然だ。元気がある。それだけが唯一信じられるね。でも、うるさかったらごめんだね。こっちの元気を殺す。元気のある人間は元気のない人間を見つけてそいつから、元気を吸い取っているんだからね。元気な人のそばにいるといいよ、元気をもらえるから。バカ言っちゃいけない。あんたの懐にあった金を取られてあんたの目の前で揺れてる札束を見て、それが自分の金だって気づくようなもんだ。そして、その金を相手にやる。第一、人からもらった元気は長続きしない。その場所に行かなくちゃならない。だからだ。個人主義なんて、いろんな人がバカにしてもう誰も言わないけど、皆が研究者なのだ。そして、そこで優劣を作るのがおかしい。つまりもう人類の発展が人類の幸福と全く違うってのに嫌気がさしている。いろいろ嫌気がさしているから、仏教に行くね。仏教は、認知に関わるよ。目の前の事象さえ、でっかい天体望遠鏡を使わなくても魅惑的な未知の世界なんだから。第一、膨大な研究費を必要とする科学なんてのは、日常について興味がない何か常識を持たない人間が、その人間界隈のくだらん常識から離れて一人他人の金で研究して偉そうに喋っては金になるというシステムにも嫌気がさすね。まあ、感じのいいひとになることだね。それ以外に、価値あるものってないよ。それが一番じゃないか。感じのいい人になる。なんの金もいらない、つまらない貸借りもない、システムもない。自分も気持ちよくなる。相手も気持ちよくなる。それだけだ。