アウトプット

相手の視点に立ってみよう

世相アンテナ

 昨今は、日本人もだいぶ保守的になって、考え方が固着してくるようになった。面白い人たちは少なくなり、真面目な人たちが増えた。真面目であることが、美徳であるからというよりも、より無難な生き方として選択されるようになった。また、真面目であることが、退屈だと思うよりも、退屈な毎日を淡々と過ごせるようにもなった。しかし、不満があるわけではない。やはり、日常を離れた世界に行きたいと考えてもいる。宝くじ、投資、競馬、パチンコ等々、少ない金を元手に大金を手に入れられるシステムがある。もちろん、手に入れられる確率は極めて低い。もともと金持ちであるならば、資産を運用し働かずして金を増やしていける。したがって、人間は金銭の面では不平等である。お金を積まれたら何でもする人間もいるだろう。美徳がなくなった。もちろん、美徳という言葉を素直に受け取る人も少なくなった。私も、その一人だ。どこか押し付けがましく、ただの道徳である。言動の面で人々は自由になった、好きな人に愛していると口では言いながらスマホでは他人の性行為をみて自慰に耽る。所属する組織の悪口や不満をぶちまけるも、そこに所属し続ける。言動の面では非常に自由になった。奥ゆかしい心を持った静かな人はあまり見受けられない。ぼうっとして、歩いている人も少ないようだ。だれもが、あいてを見回しあいてを監視するように、そして自分と無意識のうちに比べている。今の時代は、戦後の混乱期に比べものは豊富だが、それにより、ひとりひとりが考える時間はなくなり、つねにものを消費する時間に追われている。つまり、相手を理解しようという精神が希薄になった。寛容さを失った。

 周囲の環境がそうさせるのかもしれない、皆早歩きにどこかへ向かっているが、生きがいを見失って遠くへは行けない。焦ってばかりいて、あぶなっかしい。街の中を車を縫うように走り抜け信号で追いつくようなものだ。社会にある信号にはさからえない。一方で、情報がすぐに手に入れられるようになり、自らの考えを補完するためのツールは増えた。いわずもがな、ネットで普段は接することもない人たちの、きれいな文章で綴られた記事を見ると心地よい。しかし、それも到底本にはかなわない。路上に落ちている紙切れを拾い上げて読んでみていい記事だと感動するようなものだ。もちろん、路上に紙切れなど落ちていない。

 何が言いたいのか、というのは相手の口を黙らせる方法だ。もちろん、自分も多少の傷はおってしまう。死ぬなら共に死のうという最後の戦いだ。何が言いたいのか。それをいっちゃおしまいよ。

 文章を書くにあたり、自分に文章を書く情熱が希薄になっている事実を直視できないでいる。前は、非常に長ったらしい文章を当たり前のように書いていた。内容はめちゃくちゃだ。意味などいちいち拾われては困るような文章だ。ただ、文章を立ち止まらずに歩きながら、走りながら、意味のわからないところは意味のわからないまま調べようともせず、とにかく読み終えてしまえば、おのずからなにが言いたいことの伝わるような文章を書いてきた。

 なぜ、わたしは意味のわからない文章を書くのだろう。ひとつには、意味はかならず定型文にそくして現れるものでそこに、オリジナル性は皆無であるからだ。いろいろな文章が世に氾濫しているが、内容はちがっても形はにている。それも、非常に似通っていて、どんなに奇抜な内容であっても文章がまずければ決して最後まで読み進められない。だから、何も考えずに読むしかないのである。現代の不幸は、綺麗な文章を書く人が少なくなってしまったことに加えて、ネットの社会にはやはり、そのように綺麗な文章を書く人はおらず、本の世界にいるということだ。本がネットの普及によりなくなるかもしれないが、それは文化の停滞と呼んでも一向に間違いではない。

 文化が、時代により多様な形をとるから、その時代ごとに文化を捉えるのも悪くない。しかし、決してこと線に触れることはない。流行だけが文化であると考えるのは如何なものか。文化とはもともと、自分の感性を耕すという意味である。毎年映画になる青春物語を毎年見ていて、自分の感性が豊富になるのを感じる人は少ないだろう。つまり、一定のニーズがあるのだが、それも、自分が興味があるのではなくて、他人の興味を追っているに過ぎないのだ。もちろん、私は本を書いた著者の興味を追っている。彼らの多くはもうこの世にはいない。だから、聞くこともできない。じぶんで、なるべく多くの本を読んで解釈しなくちゃならない。解釈が独りよがりで主観的だという批判は的を外れている。もともと、文化は自分の感性を耕すものだ。ふつう、一般の人間はそういったことはつまらないといってやらない。流行は安易だから、金さえあれば付き合える。しかし、本は頭を使わなくちゃならない。だから、面白いのだ。じぶんがいかに、多くの余計な雑音を拾ってビクビクしているのかもわかる。存在もしない他人の顔色を伺って生きているのかもわかる。それを知ろうと思わない、戦おうとも思わないのであるならば流行に従っていきていれば、周囲から浮き出ることもないのだ。現代人の特色として、アイデンティティは非常な邪魔な概念として存在している。個性は、必要とされていない。そう感じるのだ。そして、自らの個性を殺しているから、お前も個性を殺せという暗黙のルールがある。非常に貧しい。社交辞令ばかり増えて、つまらない。つまらないお世辞を営々んとしゃべる嘘が楽しくてしょうがないのだろう。嘘をしゃべるのだから、すこしは現実から逃れられる。

 いろいろ書いてきたが、相手に配慮する文章を書くのは非常に困難だ。書いた、という実感があまりない。情熱で文章を書くという言い方も非常に恥ずかしいのであるが、実際に、私は情熱でしか文章を書けないのだ。構成をするにしても、ごちゃごちゃなあたまのなかで、適当に枠を決めて書けばそれなりの構成はとっている。人間の遺伝子の99パーセントは同じらしい、だからと言って人間とひとまとめにされちゃこまる、残りの1パーセントのおかげで、人間という枠から皆結局ははずれてしまう。個性でしかなくなる。どうして、ルールを守らなくちゃならないのか。どうして、ルールがあるのか。そもそもルールと呼んでいるが、それを運用している当の本人たちはルールなどと感じてもいない。電車が来た時に、なぜこの時間に電車が来るのかを考えてもしょうがない。作った人の意図などわからない。ただ、なるべく多くの電車を入線させようという気持ちはあるだろうと、そう考えることはできるだろう。