アウトプット

相手の視点に立ってみよう

くるしゅうない。

 怒涛のゴールデンウィークが終わって一安心しているような気がする。自分の気持ちを判別するのは非常に困難で、確固とした意志を持って生きるのは非常に難しく、相手のことが好きであるのか嫌いであるのかはちゃんとわかるのであるが、私に分からないのは、どうして僕はこうもダメなんだろうと考えることなんだ。自分がダメであると考えるときは必ず、何かと比べているわけだ。そういうことを暇なくしている自分が情けなくも愛おしくもある。相手を、想定して常に喧嘩しているのである。なんという暇人だろう。まあ、いいのであるけれども。自分が何を考えているのかわからない時の手法として、とにかく喋ってみることが大事である。声を出してみるのも大事であるけれども、声には声色が伴うのでそれに拘束されてしまう。どうしても、本音が出てきにくいところがある。声色に、励ましを得られることが大いにある。どうしても、感情というのは作られたもので、好きだとか嫌いだとかも嘘であることがある。楽である。つまり、どういう思い入れを作るのかは本人である。怒涛の一週間はこれでひとまず終わりを迎えたわけであるけれどもね。

 しっとりと、自分の考える道を歩んでいくのも大事なことではないだろうか。自分以外の人のこと考えすぎである。大事なのは話を聞くことだ。しかし、あまりにも話を聞きすぎると自分が消えて無くなってしまう。言葉は、自分という架空の存在を維持させる生命装置だ。人は眠れば、自分で無くなるのも容易なのだ。言葉は、私を構築する機会でしかない。詩歌に含まれる、甘美な言葉も実感がわかないのは、自分の感情が枯渇しているからだろうが、感情が枯渇するはずもないのだ。常にあ、源泉は感じられている。それをせき止め制御している仕切りがあるだけなのだ。それは、緊張だ。筋肉のこわばりだ。筋肉は、記憶する力と関係していると言われている。多くの人は、記憶力はいいほうがいいというだろうが、嫌な思い出をいつまでも忘れられないでいるのはどうしたものだろうか。けろっと忘れてしまえる人は、人生楽であるし、力が抜けてしゃだつで、思い込むこともなく、自由に、涼しく、淡白にいきていられるのではないだろうか。いったい、自分が言い間違いをしないようにするために人間はどれだけ、自分の感情とは違った言葉ばかり喋っているのだろうか。学問とは、しらがみからの解放である。その解放された場所でさえも、拘束されている。小説では、社会を変えずに完全に、自分も変わらずに、ただ、環境を変えようとする。哲学は違う。自分と社会を変えようとする。小説は、あくまでもお酒であるが、哲学は、どうしてもお酒の延長線上にある。お酒を飲まなくても酔えるのだ。最高の美酒は水なり。そういうことだ。一体社会は、つまらない倫理観とか秩序を持ち出して、会話を成立させる。マスメディアも、ソーシャルメディアも自由な意見は、多くの大衆により監視され異端視される。それは、なぜか君たちにわかるだろうか。テレビでは、ある突飛な意見、例えば、山口メンバーは悪くない。という意見があるだろう。確かにそうだ。キスぐらいでわめく、女もどうかしている。酔った勢いで無理矢理に相手を押し付けてキスをしたのかはしらない、いったいどういう内容であったのかはちっともわからない。にもかかわらず、山口メンバーをせめるせめる。そして、今謝っておけば、そして、今山口メンバーについてとことん話すことで、山口メンバーは生き続けれられるのだ。君たちの心の中で。本当に変なことをしている。悪いことをしたのなら、誤って終わりじゃないか。金をはらったのだろうそれでおわりじゃないか。それを根掘り葉掘り、アル中なのか、性格がおかしいのじゃないか、大人としておかしいじゃないかと、とにかく、人々の様々な思いを投影させるスクリーンになっている。これくらい、おかしいのだ・・・。非常に難しいと僕はよく口にする。簡単に物事を解決するのは、難しいことではない。ただ、相手が拗らせようとしているのが見え透いているのだ。はい、と言えばいい。僕は別に嫌な要求は一切していない。金があるのならバイク一台くらいかったらどうだ。買わない。なぜ?別のことに金を使いたいからだ。おわり。これくらいシンプルな思考なのだ。しかし、これじゃものはうれない。ものを買ってからの環境を売りつけなくちゃならない。バイクを買えば遠くの美味しいものが食べられるとか、具体的に言えば、パトカーなんてぶちぎってやれるという話だ。どうしても、今の社会の置いて、公務員というのがあまりにも理想的な職業としてあがっている。現代の人間は、群れたがる。それくらい、見知らぬ他人との生活環境が、そしてルールが違っているのだろう。個人が持ち出した価値観に沿って生きている。それくらい、狭いのだ。狭いのは、社会じゃなくて、友達の中にいることじゃなくて、自分の考えている内容であろう。社会とは、私の心の中に出来上がっている生活形態でしかないじゃないか。どこに社会があるというのだ。自分の中だろう。決して外にはないだろう。体重90キロの脂肪がぶよぶよした女が女優になりたというときに、シンデレラは不可能である。しかし、エキストラとして出演して、エキストラ目線で自分が主人公になれれば、それはシンデレラではないだろうおか。それを、誰かに話すのはおかしなことである。誰かなしに成り立たないシンデレラに拒否されて、さらに自らも同じ位置にいるために、僕は何を言っているのだろう。山口メンバーのことなのに、国分太一があやまる。素晴らしいね。これだけ、相手をかばってやることができるのも面白いね。