アウトプット

相手の視点に立ってみよう

はてなの気持ち悪さ

 何を書こうが自由であるというのは、間違いだ。それは俺にとっては非常に間違っている。読みたい記事を読むのであるならば、何も得られない。すでに、読んでいるのと同じだから。人は寂しい弱い存在だから、大きな存在に自分の意見を見出すのを好む。ツイッターで同じ考えの人に共感するという情けなさ。それを考えれば、現代人は予め、ネットにおいて全体で意見のある程度の共有ができており摩擦が起こることもない。そして、摩擦からイノベーションが起こることもない。現代は、新しいことよりも思いつきが重視される。つながりで、経済を回そうとしている。もちろん、談合も日常茶飯事になるに決まっている。自由な競争では、得をするのは金を持っているものであり、金を持たざるものはかつかつの生活を強いられる。

 はてなにおいて、ニュースの事件を取り上げて、分析する馬鹿を見ると、そんなことをやるにはてぬるい分析しかしていないし、読もうとすら思わない記事ばかりだ。だから、記事に何も求めない。自分の感情だとかを求めないのだ。そもそも、人はなぜ記事を読むのだろう。ニュースを知りたがるのだろう。マスメディアはあの手この手で読み手を獲得しようと嘘ばかり、刺激的なことばかりいい続けるうちに視聴者の感覚は麻痺して日常生活が不愉快な環境に知らず知らずのうちに変わっていくことに鈍感になっていくのだ。

 自分の熱情から出た記事であるならば、人も読んでくれるかもしれない。しかし、話す相手を考えるべきだ。ネットは時間、空間に関係なく記事が晒される。10年前の記事もまるで昨日のことのように読むことができる。その間、事件が変質し、人間も変わり世相の移り変わりを感じられないことはないであろう。人々の持つ当時の環境が記事に現れてくるのだ。一体どうして僕は生きているのだろう。僕にとって気持ちのいいことが、不幸であるとすれば僕はいったいどうしたら幸せになれるだろう。僕にとって不幸が当たり前のように、幸福なのだから。僕が幸福になれば、もちろん不幸も実現しているのだ。

 ある人は言うだろう。意味がわからない。何がいいたいのか。きみの想像力を働かせてみればいい。一度自分という枠を超えてみたらいい。捨ててみたらいい。対して値打ちのあるものでもない。金にもならない。世間の見えないつまらない常識に従っている自分のちっぽけさとくだらなさ、矮小さ、弱さを見たくないから、君は言う、意味がわからない、何がいいたいのか。この手のテンプレートなお返事には何と答えても差し支えない。わかりやすい言葉で話すことだ。この手の人間が嫌いだ。否、自慢話でもしてやろうかと思う。しかし、自慢話をすればそれは自慢でなくなる。自慢話は相手がそう捉えたら自慢なのだ。自分のひがみ、妄想、劣情を自慢話と呼んでいるにすぎない。

 現代は、死んでいる。自然の恵みを物にして人々に売りさばく。さて、どこが健康的であろうか。自然環境保全を訴えるのならば、経済は縮小しなくちゃならない。自然なしに、物は作れないのだから。つまり、現代人は地に足が付いていない。つまらない人間の総体を現代人というのだ。小さな派閥をたくさん持ち、本当の友達というのがあちらこちらでみられ。互いにつまらないルールで縛り付け合う。近頃、男が皆ホモに見えてきた。グループがそうだ。縛られる必要があるだろうか。女は男のグループに参入して積極的に金として役割を持つ。お世話をし、価値を見出した男達は女を欲する。女もうまくいっているうちは、機嫌よく愛想よく振る舞うだろう。その後に、男に気に入られれば美味しい話だ。馬鹿な男達を褒めたり、労ったり、たまには、下半身の快楽に誘ってもらったりと、好き放題。さて、どうだい、世の中をみわたしてみれば、しまりのない空気。現代は、平和な時代である。こんな時代の貧困は、貧困でも何でもない。つまらないので、死んでしまいたい、という気持ちになるのも当然だろう。ところで、気持ちというのを多用して使用するのはよくない。どんな気持ちであるのかを書くべきだ。最後は戒めで終わる。自分に対しての。記事は最悪だ。なぜなら、私が気分よく記事をかけていないからだ。何が書かれているのかではない、どう書かれたかだ。以上。