自分は

 自分をさらけ出す欲望もあるわけではない、しかし、それをしなくちゃ鬱屈した気持ちから解放されない。そんな気がするのである。不満な女はその不満をいままで親にぶつけ諭されてきたのだろうが、それができなくなっていつまでも不満にそして、自分の体のみ弄ぶ権利を相手に与えることができると悟った瞬間に、男遊びに走るのだ。牢獄は自分自身であり、自分の考えそのものなのである。だから、人間は皆平等に苦しい存在なのである。それを認められないから、相手に対して羨望の眼差しを持ったりもする。しかし、それは救いでもある。自分も苦しみから解放されて華やかな人生を謳歌できるはずだ、努力すれば。となるのだ。そんなはずは一切ないのであるが。自分自身、気持ちがすっきりしないのだ。やるべき努力をしていないからだ。何かをしたいのではなく、何をするべきかで考えるといい。といっても、それは三島の言葉だ。三島の小説に出てくる言葉に過ぎないのだ。私は、世の中のテンプレートな文章が頭の中にしみこんで、もはや、アウトプットができない状態にある。世界は恍惚としていた。メディアから離れた時。世界は私に話しかけてきた、世界旅行記を映像でみる羽目にならなければ。世の人は疲れている。だから、何もしない。それは素晴らしい。ネットの情報は玉石混交だ。役に立つのか立たないのか。ごみ捨て場から廃材を持ってきて家を建てるのに、シロアリに食われた板を使いたくはない。未来小説の夢も、形式も、今は普通になった。真新しいことは、素人の手垢にまみれて近寄りがたくなった。どうしても、私は思わずにはいられない。人は、ネットで同じような情報を共有し、同じような結論に至る推論を重ねるように誘導され、また、書き手の人間も、読まれたいがゆえに周囲に同調して同じような記事を書き、以上のような記事が大量にネットに蔓延して、つまらなくなったと。ノイズが必要なのは、文体に関してである。人は、伝わりやすい文章と構想だけで満足する生き物では決してないのだ。今は、積極的な変人が求められている。こんな時に、変人になるのは、成績優秀な人間の方にはまった変人だ。だから、俺は自分の変人度合いを隠す。相手を立てる。それだけだ。人生みな疲れているニートから主婦会社員みんな疲れているのだ。それなのに、疲れていると言葉にする。これについて書くとなんとなく筆が進むので書くわけだ。決して自分が書きたいことではない。先ほど三島の言葉を例に出したが、何を書きたいのかでなく、何を書くべきなのかを考える必要があるのかもしれない。私は今ここに、どうしてもオンライン上不特定多数の人が私の記事をみるだろうということを観念の外に追いやることができない。だから、仮面をかぶる。少しは変わった記事を書いてやろう、わけのわからないことしか書けないから、どうせ変人扱いされるだろう。私のアウトプットは、私に対して新鮮味のあるものではない。他人に対して新鮮味のあるものだ。誰だって、人前で自分の性器を露出するのをためらわない人はいないだろう。私はただ、性器を露出しているのだ。相手からしてみれば、私のあそこは初めて見た代物だろうが、私は毎日見ているのだ。何も真新しいところはない。このように、私は決して自分のためにアウトプットしているわけではない。相手に対してカミングアウトしているに過ぎない。そして、カミングアウトは本当につまらない。だからやめた。