アウトプット

相手の視点に立ってみよう

人間は作られた

 「人間」は概念である。概念であるので解釈される。親が死んだら泣くが、東京拘置所で死刑になった者に涙を流す人は少ない。概念であるから、人間はロボットにも適用される。ペットも人間になりうる。人間的な生存のあり方を与えられる。人形は人間の形をしているが、人間ではない。人形は死なない、壊れるだけだ。人間は壊れても、死ぬ場合と死なない場合がある。

 人間は概念といったのはミシェル・フーコーだ。とは言うものの、実際のところ彼がそれを言っただけの話だ。人間は概念ではないと否定することもできる。しかし、見知らぬ隣人よりも飼い犬を愛するのは容易な出来事であろう。

 つまり、人間同士の間であっても人間だと思っていない場合がある。だから、平気で人を殺す。殺人は同族殺人が多い。親殺し親戚殺し恋人殺しが多いのである。無差別殺傷の場合は全人間に向けられた敵意である。なぜ、全員が敵になるのか。そもそも、全員が敵であるなどとなぜそう思うのか。無差別殺人の動機には自殺志願があるらしい。しかし、自殺したかったという人間が無差別殺人で誰でもよかったと言って一緒に死んでもらう相手を探すのだから、よほど自分を古代の王様のように生きた奴隷として人間を扱っていたのだろう。それが、自分が犠牲になる方だと思った瞬間認められない大きな敵が現れてしまったのであろう。それが、誰でもいい他者である。

 ところで、なぜ人間は服を着るのか。寒い時でもスーツを着るのはなぜか。なぜ寝巻きで外を出歩いてはいけないのか。外で起きた出来事を中にもたらさない。そのために服は必要だ。服があることで、自分の汚れを捨て去ることができる。服を脱ぐのは、世界を捨てることだ。世界を捨てて交差点に立てば、捕まるのだ。演じなければならないのに、それをしなかったせいだ。

 別段、宇宙人を持ち出さなくても人間は操作されている。しかも、自発的に操作されている。それを超自我だと読んでみてもいいのだし、秘密国家機関が開発した遠隔操作技術で動かされていると言ってもいい。乗り移ったと言ってもいい。本能だと言ってみてもいいのだ。つまりは、人間の行為の動機は環境にある。自己責任とは、他者の与えた命令の責任を自分が取るという非常にアンバランスで不当な発想である。自己責任で何をしてもいいのだと考える。しかし、何もすることなどないのだ。ただ、誰かのやった真似事をするだけだ。そこに完全な自由はない。また、自由は閉鎖的な動作の中与えられる差異でしかない。自由が魅惑的な理由は、自分だけにあたえられた特権があるという発想で世界を見渡せば世界を征服したような気持ちになれるからなのだ。つまりは、電車の中で絶叫することだ。世界の中心で全裸になることだ。俺が世界の中心だと考えることだ。

 次に、共同幻想について考えてみるに、共同幻想はエコシステムである。人間は幻想なしに生きられない。かと言って自ら幻想を作り出しメンテナンスして維持するのは相当な体力を必要とする。例えば、生命尊重は共同幻想である。人間は集団的なれば容易に人を殺せる。戦争だ。しかし、一人で戦争を起こせば必ず殺される。其の幻想を作り出した強力な意志は、共同幻想に浸り続け意志を失った大多数の人間にとっては脅威である。別の世界を作り出すだけの力を持った人間が他にいれば、自分たちの住んでいる世界が壊される。切れ目が入り、恋人を愛しているはずなのに暴力を振るってしまったりする。だから、世界はひとつであってほしいのだ。そして、世界がもし別にあったとしても魅惑的なところであって欲しいのだ。パリはいつまでも、魅惑的な都市でファッショナブルであってほしいのだ。

 共同幻想の構築には、犠牲も必要だ。それが精神異常者と呼ばれる人間だ。この世界には神秘的な世界を妄想することは許されても実現しようとしてはならない。死んだ人間を生き返らせようと、冷蔵庫の中に愛する妻を冷凍保存してはならない。あいつを殺せば世界は救われるだろうという幻想を抱いて、大統領暗殺をしてもいいがリスクを背をわなければならない。

 以上人間は、幻想を当てはめて生きている。エピステーメーというよりも、幻想とった方がいい気がする。知的と言われても、何が知的なのか私にはちっともわからない。おそらくは、翻訳的なのだピンっとこない。知的とは、幻想を保持していることに違いないのだから。

 さて、人間はロボットにもなりうる。たいていのものは人体の拡張だとマクルーハン言った。では、私は何を言えるだろうか。誰かの説に依拠したくないという気持ちは集団ないで孤立を宣言するようなものだ。しかし、あまりにも集団に近づいて同じことばかりするのは苦しいだけだ。人生とは、決められたレールでしかない。だから、人生の幸福とは、人生ゲームに仕込まれた結婚、家庭、家、セカンドライフでしかないのだ。人生とは無駄を徹底的に省いた行為の結晶である。寄り道もせずにひたすらに人生を歩むことだ。幸福とは、幸せを幸せだと思えることだ。決して、機械的ではない。人間は必ず妄想の他者と比較して顔を見る。彼らは貧しそうなのに笑顔で楽しそうだ。言葉も本質をついているようだ。貧者ほど幸せなのではないだろうか、と。

 幸福を得るための苦悩が、そのまま幸福になる。幸福を求めれば、我慢を強いられる。嫌なことをする、嫌なことを言う。それが幸せに直結するのだ。あの時は、あなたを刺しちゃったけれど、今は私の看病のおかげで体は健康を取り戻したわね!

 幸せは、苦悩と表裏一体である。生きることは、苦であるといった。美味しいものを食べることも苦である。毎日美味しいものを食べたら飽きてしまう。他に美味しいものはないかと探すが、世界中の美味しいものを食べてしまったのでもうないのだ。だから、もう一度味わうために断食をするのだ。古代ローマに住む婦人は美食家でありながら嘔吐を催しさらに、道を極めんと欲して美味にかじりついたらしい。

 そこで、欲望が登場する。欲望とは追求することだ。脇目も振らずに一心不乱にといった感じだ。再び健康的な体を取り戻すべく、栄養失調にしたりすることだ。人間の生命尊重をもう一度知るために、戦争現場に行って殺戮現場を撮影することだ。まずいものばかり食べて、適切に料理されたものを食べることだ。一体、美味しいに基準はないのだ。舌は飼いならされている。ファーストフード店にね。

 世界が幻想で作られながら私はそこに生存する中で、他者に出会う。私に世界が他者によって飲み込まれる恐怖。それが、貧者の嘆きであり、強者の喜悦になりうる。それを、俯瞰してみればどちらも幇助し合う関係であることを見る。中間である存在は無視されている。彼らは王様でもなく貧者でもない。何者でもないのだ。