アウトプット

相手の視点に立ってみよう

日本人やめます

 結局、日本人ってなだけで妙な空気にすり寄って肩身狭く他人を意識して自分を抑圧しているだけじゃないか。他人も私から抑圧を受けているので非常に申し訳なく思う。もっと軽く生きられないものか。もっと工夫して綺麗になれないものか。日本国籍を持っている日本民族がしていることは日本文化だろうが、文化という言葉は欧米から来た翻訳語であるため日本文化なるものは存在しない。歌舞伎も、競馬も、ゲームも何もかも日本のカルチャーはそんなものではない。パチンコ、風俗、ナンパも日本の文化である。以上のことから、日本の文化の誇張は観光客を寄せ付けるための宣伝広告でしかない。ハトバスに乗って東京を知ったような気になるバカな外国人がたくさんきて金を落としてくれればなおさらいい訳だ。

 微笑みの国はタイより日本だと思う。ただ、私はその微笑みが造形された嘘の笑顔であるのを知っている。だから、やっぱりタイの方が微笑みの国かもしれない。それでも、少し高い料金で観光船に乗らされたのでやはりビジネスだったのかもしれない。それでも、気さくに写真を撮ってくれたタイのおじさんは日本には絶対いない人だ。

 日本人はコンプレックスの塊だと思う。街は綺麗でも家は汚い。外面はよくても内面は腐ってる。それを互いに知っている。陰湿だ。テレビ番組も近頃はもうふざけている。本物の芸人は地上波には出ることができない。本物の女優はいない。仮面ばかりだ。すべて劇にいるのだ。街角にいる。それが日本人だと思う。

 つまり、日本文化なんて言葉が流行るメディアの世界のインドア野郎に日本のことなどちっともわからないのだ。それはそれでいいと思う。文化を追求しても何も見つからない。残骸だけが散らばっている。己の心のね。

 陰湿だ。実に、陰湿だ。私は匿名で日本文化を重宝する人間たちのつくあげる日本人像から離れようとしている。それをいじる芸人たちにもうんざりするほどの媚を感じる。時代のモードにあわせて生きるのか、それとも振り回されるのか。

 日本人をやめたらどう生きればいいのか。まずは英語だ。そして、フランス語だ。ところで、また日本人に戻るときには?おそらくはメディアの作り上げた日本人像を壊したいのだろう。田舎では不倫は当たり前。子供がいるのに同級生の友達の男とセックスする女がいるのが田舎だ。その男友達もまた子供がいるのだ。

 田舎ではそれを咎めない。おおらかだというだろう。咎めているのは私なのだろう。だから言いたいのは、私こそ日本人ではないのか。メディアの作り出すオシャレで綺麗なグルメ好きの優しいおもてなし上手で気がきく日本人をやめたいのだ。

 メディアのメッセージに従うのになれた人も大勢居る。私は慣れないだろう。生理的な嫌悪感を持っている。なれたとしても意識を殺しているだろう。または、うまくやれないだろうが頑張ってやっているだろう。

 日本という国で、人間関係だけで生きるのは容易であろう。しかし、その人間関係が地獄であるのを知らないのだろう。大陸法系が好きだ。英米法系も好きだ。どちらだって適応できる自分がいる。私が日本というメディアの概念を批判しても意味がない。メディアは発信し続け日本人を私たちに植え付ける。せっかく日本語ができるがために、言語の命令に従っているのだ。外国語を学ぶとは、言語の命令を無効にする体験である。

 そろそろ書き終えたいのだ。