アウトプット

相手の視点に立ってみよう

趣味は多彩であるべきだ

 私はバイクが好きだ。大好きだ。しかし、私の妄想はバイクをそう簡単に許さない。行ったばかりの道ばかりがあるだけだ。まだ、見ぬ道を歩みたいのだ。そう。私は別段バイクにかっこよさをもとめる。ただ、それだけだ。飛ばす必要はない。ゆっくり走らなくては、高みにはいけないのだ。F1ドライバーがクソ楽しくなさそうなのも、彼らはもう叱咤激励で走らされることに疲れ果てているからだろう。しかし、周囲の目は戦う戦士だ。彼らは命知らずのライダーたちなのだ。ここ、数年日本グランプリでのクレーン車に突っ込んだスリップ事故以来死亡事故のないF1レースだ。ドライバーが安全を求めている。視聴者は死を求めている。現代は、アルコール抜きのビールが好まれる時代だ。肉体なき人間が現れてもちっとも怖くはないだろう。私はただ、世界平和を望んでいる馬鹿者なのだ。世界平和?ありえない。戦争で産業が伸びるのだ。日本が物質的に豊かになったのは戦争が町と人間を荒廃させたからだ。平和を狂った様に求め、倫理的にうるさくなり、街は味気のないビルが整然と並ぶ町となった。それでよかったのだ。戦争に負けて腐ってばかりではない。近代人は、戦争を行った勢いを経済成長に追い求めたが、第二次産業が飽和状態に達すると高度経済成長は終わりを告げた。不安を煽らなければならないほどに、日本は平和なのである。そして、それは男にとって死地で暮らすことと同義語なのだ。男は危険を骨の髄から愛する。しかし、決定的に女は危険を回避する様死に物狂いの努力をする。彼女らの不安が男に金を求め、女としての価値を維持するためのコスメに向かい、ファッションに身を費やして平和な空間を維持する様に、秩序を愛する。それが、いかに腐敗に満ちた不公平なものであろうとも。結局、女たちは、いかに生きるのではなく、生きたいのだ。そして、これは私の偏見なのだ。別段、そう断言するほどの意見を私は持っていない。もっと言えば、女について私が持っている意見は移ろいやすく変わりやすいのでちっとも一貫性がないのだ。私は女を枠にはめない。女は存在しないのだ。男の中の幻想でしかないのだ。だから、2次元に走ろうとも思わない。2次元の相手こそ本物の女なのだろうから。肉体などなくてもいい。次元を区別する意味もなくなってくる。女は常に演じる。物語に沿って。それが下手な演技であるほどに男にとっては可愛く思えるものなのだ。庇護欲もない様な情けない男に囲われることこそ不幸である。と、書いてはみたもののいまいちピンとこない。私は本質を離さないで自由な連想から一瞬の真理的なものを掴みたいというクソ真面目な目標を立てているのだ。私はちっとも、申し訳ないけれども、結論を愛せないでいる。会話とはなんだ。結局結論をいつまでも先延ばしにしてまた会話することだ。会話で決して口にしてはならないのは正論と、解決策である。対談も同じだ。自分の意見なぞ持たないほうがよほど人間的に面白い。ある理論はおそらくは宗教的なまでに信者が増えないと、全く効果がない。だから、小出しにその理論を下地にして文章を書くしかないのである。と、書いてみたところで、私の連想はジャックラカンに飛び火するのだ。酒を飲みたいくらいだ。彼に私は相当影響されているのだから。正確に言えば、ラカンにとりつかれた日本人の文章にとりつかれたのが私だ。フランス人は面白い。彼らは思想に優劣のないことを説いた。思想は、どれも全部同じだ。ただ、どれだけ深いのかによる。子供達は絵本を見て、まるで古代インドのスッタニパータの読後感を味わうのである。言葉とは不思議なものだ。実に不思議だ。結局は想像力が読書には必要だ。文字を返還する技術が必要である。だから、読書家は夢想家が多いかというともちろん違って人によりけりなのである。読書について話すのは気が進まないからやめにしよう。